張旭
張 旭は、中国唐代中期の書家。字は伯高。呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の出身。官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。 草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。 詳しい経歴は不詳であるが、常熟県尉で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫・賀知章らと交わり書家として活動していた。 大酒豪として知られ、杜甫の詩「飲中八仙歌」の中でいわゆる「飲中八仙」の一人に挙げられているほどである。
生誕 670年最終更新 2026/10/16 14:47
張 旭(ちょう きょく、生没年不詳)は、中国唐代中期の書家。字は伯高。呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の出身。官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。
草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。
詳しい経歴は不詳であるが、常熟県尉で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫・賀知章らと交わり書家として活動していた。
大酒豪として知られ、杜甫の詩「飲中八仙歌」の中でいわゆる「飲中八仙」の一人に挙げられているほどである。
型破りな急進書家
張旭はその書に対する態度に関しても、また生活態度に関しても、実に型破りな人物であった。
李肇の『唐国史補』によると、かつて公孫大娘という舞姫による剣器の舞を目にし、草書の筆法を悟るヒントを得たという。「張旭の草書 筆法を得て、後ち崔邈・顔真卿に伝ふ。旭の嘗て曰く、『始め吾 公主・担夫を見て路を争ひ、而して筆法の意を得る。後ち公孫氏の剣器を舞ふを見て、而して其の神を得る』と」。後年、杜甫は公孫大娘の弟子の李十二娘による舞を目にし、「観公孫大娘弟子舞剣器行」と題した詩に詠んでいる。その序によると、「昔者、呉人・張旭、草書の書帖を善くし、数々嘗て鄴県に於て公孫大娘の西河の剣器を舞ふを見、此れより草書長進す」といっている。
このことは、同時代の書家からすればどだい型破りな話であった。当時の書道界は六朝以来、王羲之・王献之親子の「二王」の書法を尊んでおり、書家はまず「二王」の書から学んで書を体得するのが普通だったからである。
また欧陽脩の『新唐書』の伝によると、「酒を嗜み、大酔する毎に、呼叫・狂走して、乃ち筆を下し、或いは頭を以て墨に濡らして書く。既に醒めて自ら視るに、以て神と為し、復た得る可らざるなりと。世 『張顛』と呼ぶ」と伝え、その書は「狂草」と呼ばれた。前述の「飲中八仙歌」によれば王や貴族の前ですらそうした行動をいとわなかったと詠まれている。李白はまた後年、若き草書の達人のを詠んだ「草書歌行」の中で、「張顛は老死して数ふるに足らず、我が師は此の義 古へに師せず」と評している。ただし、「草書歌行」は、李白の詩ではなく、後世の偽作である。
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