劉琦
劉 琦は、中国後漢末期の人物。劉表の長男。兗州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。弟は劉琮。生母は不詳(『演義』では陳氏)。
生誕~死没 年不詳 ~ 209年最終更新 2026/10/16 14:50
劉 琦(りゅう き、生年不詳 - 209年)は、中国後漢末期の人物。劉表の長男。兗州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。弟は劉琮。生母は不詳(『演義』では陳氏)。
略歴
劉琦は慈悲に溢れ、また孝行心に富んだ人物であり劉表と容姿がよく似ていたため、劉表に大いに可愛がられた。だが劉琮の妻の伯母で蔡瑁の姉の蔡夫人が、劉琮後継のために奔走し、劉表に対して数々の讒言を言い続けた。このため、次第に劉表は劉琦を疎んじ、劉琮を可愛がるようになった。
劉琦は身の危険を感じたため、劉備に仕えていた諸葛亮に相談を持ちかけたが、諸葛亮はその度に拒否して相談に乗らなかった。
劉琦は諸葛亮を連れて裏庭を逍遥し、共に高殿に登って、宴を張っている間に梯子を取り外させて、諸葛亮に言った。「今日は、上は天に届かず、下は地面につきません。言葉はあなたの口から出て私の耳に入るだけです。何か話していだだけないでしょうか。」 諸葛亮は答えた、「あなたは申生が国内に留まったため危険にさらされ、重耳が国外に出て安全だったのをご存知ではありませんか。」
劉琦は諸葛亮の助言を基にして、孫権と戦って戦死していた黄祖の後任を願い出て、それが採り上げられたため、江夏太守に移ることになった。
208年、劉表が危篤に陥った時、劉琦は襄陽に駆け付けたが、劉表と劉琦がお互いに感じあい、劉琦に、後を託す意志を持つのではないかと疑念した蔡瑁・張允らによって妨害され、ついに面会は叶わなかった。劉琦は父の逝去に嘆き悲しみ、それを聞いた人々も皆悲しんだという。
劉表の死後劉琮は(劉表が朝廷から与えられた)侯の印授を劉琦に送ったものの、劉琦は怒ってこれを投げ捨てた。
曹操の軍勢が新野に侵入して来ると、劉琮は臣下の進言によって降伏したが、劉琦は長江を渡って南に逃れた。
その後、夏口に逃れた劉備と合流し、赤壁の戦い勝利後に劉備から荊州刺史に擁立されるが、翌209年に病没した。これ以降、劉備と孫権は荊州占有権抗争を繰り返すことになる。
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