劉璋
劉 璋は、中国後漢末期の群雄。字は季玉。本貫は荊州江夏郡竟陵県。父は劉焉。
生誕~死没 162年 ~ 219年最終更新 2026/10/16 14:53
劉 璋(りゅう しょう)は、中国後漢末期の群雄。字は季玉。本貫は荊州江夏郡竟陵県1。父は劉焉。
生涯
劉焉の少子(末の子)だったが、若い時に長兄の劉範や次兄の劉誕と共に、奉車都尉として長安の献帝に近侍していた。献帝は宗室の劉焉の暴走を諫めさせるために、劉璋を益州に派遣したが、劉焉はこれを聞かずに劉璋を二度と都に戻さなかったという2。興平元年(194年)に兄の劉範、劉誕が相次いで亡くなった3。劉焉が病死した時に州の大吏の趙韙(巴西出身)らは劉璋の温仁を貪らんと、共に上書して劉璋を益州刺史とした4。朝廷(李傕政権)は、劉璋を監軍使者・益州牧に任命した5。
建安5年(200年)、自分に叛いた張魯の生母(盧氏)とその弟の張徴を見せしめのために誅殺した。
この頃、劉璋と中郎将趙韙は感情的な対立がもとで決裂し、趙韙は劉璋に兵を向けようとしたが、返り討ちにされた。『英雄記』によると劉璋は、荊州・三輔出身の兵士である東州兵が民衆を侵害しても取り締まることができず、政令に欠けるところも多かったので、これらの事を不満に思う民衆は少なくなかった。劉璋は趙韙にこの問題を解決させようとしたが、趙韙は民の怨嗟の心を利用して、州内の豪族と手を結び謀反を起こした。蜀郡・・の三郡(「三蜀」ともいう)は趙韙に呼応し、劉璋は成都籠城などの窮地に陥ったが、東州兵の奮戦により趙韙の軍勢は撃退され、趙韙は翌建安6年(201年)に配下の龐楽・らに裏切られ巴郡江州にて斬られ、反乱は終結した。また『』では、趙韙は劉璋を諫めたが聞き入れられず、謀反を起こしたとある。なお、『』「列女伝」にみえるの逸話はこの三蜀の内乱での出来事である。
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