糜竺
糜 竺は、中国後漢末期から三国時代蜀漢の政治家。字は子仲。徐州東海郡朐県(江蘇省連雲港市)の人。妹は糜夫人(劉備の夫人)。弟は糜芳。子は糜威。孫は糜照。本来の姓は縻(または靡)と読まれるという。
生誕~死没 年不詳 ~ 221年最終更新 2026/10/16 14:59
糜 竺(び じく)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢の政治家。字は子仲。徐州東海郡朐県(江蘇省連雲港市)の人。妹は糜夫人(劉備の夫人)。弟は糜芳。子は糜威。孫は糜照。本来の姓は縻(または靡)と読まれるという。
生涯
糜竺の先祖は代々利殖に励み、家は非常に裕福であった。蓄財を重ねた結果、下僕1万人を抱え、巨億の資産を有していたという。陶謙に招かれ、別駕従事の職にあった。興平元年(194年)、陶謙の死後に遺命を奉じて、小沛に駐屯していた劉備を徐州牧に迎えた。
建安元年(196年)、劉備が袁術と抗争し出陣した際、劉備の留守につけ込んだ呂布は下邳を奪い、劉備の妻子を捕虜にした。劉備は広陵に軍を移動させていたが、糜竺は妹を劉備の夫人として差し出すとともに、自らの財産から下僕2千人と金銀貨幣を割いて劉備に与えた。劉備はこのお蔭で再び勢力を盛り返すことができた。
劉備が曹操を頼った時、糜竺は曹操に評価され、上奏により嬴郡太守の地位を与えられた1。
また、糜芳にも彭城相の地位(『後漢書』続漢志郡国 8県の郡国)が授けられた。しかし劉備が曹操に叛くと、糜竺兄弟もそれに従い各地を流浪した2。
劉備はやがて荊州の劉表を頼ることを考え、糜竺を挨拶の使者に赴かせている。糜竺は左将軍従事中郎に任命された。
劉備が益州を得ると安漢将軍に任命された。糜竺はのより席次を上にされた。劉備に古くから付き従った家臣であるやよりも上位であったという。は、先に自らの下僕や財産を提供して窮地の劉備を救ったことが、劉備の寵愛を受けた理由であろうと推測している。
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