王渾
王 渾は、中国三国時代から西晋の軍人・政治家。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。父は王昶。弟は王深(道沖)・王淪(泰沖)・王湛(処沖)。子は王尚・王済・王澄・王汶。孫は王卓・王聿。妻は鍾琰。『晋書』に伝がある。
生誕~死没 223年 ~ 297年最終更新 2026/10/16 14:48
王 渾(おう こん)は、中国三国時代から西晋の軍人・政治家。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。父は王昶。弟は王深(道沖)・王淪(泰沖)・王湛(処沖)。子は王尚・王済・王澄・王汶。孫は王卓・王聿。妻は鍾琰1。『晋書』に伝がある。
生涯
深沈典雅で器量があった。父の爵位である京陵侯を継承し、曹爽の招聘を受けたが、曹爽が失脚し誅殺されると免職になった。後に懐県県令として復帰し、司馬昭の参軍事となり、黄門侍郎・散騎乗尉・越騎校尉と昇進した。禅譲により晋が成立すると揚烈将軍の官を加えられ、徐州刺史に転任となった。そのころ天災により飢餓が発生していたため、施しを行ない人心を安定させた。封邑の加増を受け、東中郎将・監淮北諸軍事となり、許昌に駐屯した。
転じて仮節・監豫州諸軍事・征虜将軍・豫州刺史となった。呉に対し武威を示したため、呉から降伏してくる者が甚だ多かった。呉の薛瑩・魯淑が軍勢十万と号し攻め寄せたとき、州兵の多くが休暇でおらず、手元には一旅(約500人)の兵しかいなかったが、王渾はその手勢で呉軍の不意を突いて出陣し、薛瑩らを撃破した。
安東将軍・都督揚州諸軍事・持節となると、揚州刺史の応綽と都督淮南諸軍事を派遣して、呉の長年の重要拠点であった皖城と諸屯営を攻め破り、多数の穀物・稲苗・舟船を焼いた。王渾は東の境界に兵を並べ、その地形・敵城を観察し、来たる呉の攻撃に備えた。
咸寧5年(279年)からの征呉の役では、揚州刺史の周浚と司馬の孫疇を派遣し、呉の張悌・孫震を破って二人を斬り、首級と捕虜合わせて7800を得るなど多大な功績を挙げた。しかし王渾が呉の主力と戦っている隙に、益州からを下って侵攻してきたがを降したため、その独断専行を弾劾した。(武帝)から呉を降した大功を王濬と共に評価され、褒美を与えられると共に子弟に爵位が与えられた。
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