曹爽
曹 爽は、中国三国時代の魏の武将、政治家。字は昭伯。魏の宗室の身分である。父は曹真。妻は劉氏。
生誕~死没 年不詳 ~ 249年2月9日最終更新 2026/10/16 14:54
曹 爽(そう そう、? - 正始10年正月10日(249年2月9日))は、中国三国時代の魏の武将、政治家。字は昭伯。魏の宗室の身分である。父は曹真。妻は劉氏1。
略歴
権力獲得まで
曹叡(明帝)の東宮(皇太子)時代から寵愛が厚く、曹叡が即位すると散騎常持になり、やがて武衛将軍になるなど、取り分け厚遇されていた。
239年(景初3年)に曹叡が病床に伏すと、曹爽は大将軍の位を賜り、司馬懿と共に猶子で皇太子の曹芳(一説では曹彰の孫)の補佐をすることを命じられた。
曹叡が36歳で崩御し曹芳(斉王)が即位すると、曹爽は侍中の位を与えられ、「剣履上殿」・「入朝不趨」・「謁賛不名」(剣を帯び、靴を履いたまま昇殿し、小走りに走らずともよく、帝に目通りする際は実名を呼ばれない)と言う特権を与えられた。魏は曹丕以来、皇族などの近親者を政治・軍事両面から遠避ける政策を採ってきた。遠縁の曹冏(曹騰の従玄孫)はこれを憂慮し、一族を登用して藩塀(国家を守る壁)としての役目を果たさせるべきと意見した。しかし、曹爽はこの意見を採用することはなかった。
司馬懿との対立
初め、司馬懿に対しては父親に等しい対応で接していたが、何晏ら取り巻きの提言で権力を独占しようと画策し、司馬懿を太傅に祭り上げて、事実上の名誉職に追いやることで、彼の権力を押さえ込もうとした。しかし、司馬懿の軍事的実績が重く、その軍権はそのままだった(曹爽も司馬懿の軍権を保証するため、司馬懿の大司馬兼任を推挙したが、不吉な先例があったとして却下されている)。一方曹爽の取り巻きは、名声はあるものの実績が乏しかった。そこで、大功を立てようと244年(正始5年)に蜀漢征伐を試みるが(興勢の役)、険しい地形に阻まれて大軍を維持するための補給が滞り、蜀の王平の頑強な抵抗もあって無惨にも失敗している。また、補給に氐・羌族を動員したが、輸送などの事故による犠牲者が少なからず出たため、彼らの不満を高める結果になった。その後、何晏達が政治を壟断したため、魏の政治は乱れることになった。司馬懿はこの状況を憂慮し、また保身のため「自分は高齢である」という理由で、病気と称して引き籠ってしまった。246年(7年)に呉のが率いる軍を派遣して柤中に攻め込ませ、曹爽は中央朝廷の大軍の指揮を自ら執り、これを迎え撃した(二度目柤中の戦い)。曹爽の大敗によって犠牲者も数万人以上となり、朱然に大破されたので敗走した。しかし、朱然はこれを見逃さず、柤中を越えて魏軍を追撃し数千余人を斬り、魏軍は大敗を喫した。
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