王基
王 基は、中国三国時代の魏の武将、学者。字は伯輿。父は王豹。子は王徽。叔父は王翁。従兄弟は王喬。青州東萊郡曲城県の人。
生誕~死没 190年 ~ 261年最終更新 2026/10/16 14:44
王 基(おう き、190年 - 261年6月9日)は、中国三国時代の魏の武将、学者。字は伯輿。父は王豹。子は王徽。叔父は王翁。従兄弟は王喬。青州東萊郡曲城県の人。
生涯
若くして孤児となり、叔父と暮らした。叔父は王基を可愛がり、王基も孝行に励んだため賞賛された。17歳で郡に召し出されたが、好みに合わなかったので、職を離れ、学問に励んだ。黄初年間、孝廉へ推挙され、郎中に任命された。刺史の王淩に見出され、王淩の上奏により州の別駕となった。王淩は善政を敷いたことで名声を博したが、王基の助言によるところも大きかった。才能に秀でており、王朗は王基を中央に呼び出すことを望んだが、王淩に阻止された。やがて司馬懿からもその才を認められ、王基は招聘に応じ中書侍郎となった。中央においては曹叡(明帝)の宮殿造営に対し、故事を引いた上奏文を提出して諫言したり、また、儒学者として鄭玄説の妥当性をめぐり、王粛と幾度か論争した。
安平太守に昇進したが、事件のため官を去った(安平太守時代に管輅と知り合っている(魏志「方技伝」))。その後、今度は曹爽の招聘を受け、従事中郎となり、呉との国境周辺である安豊太守に任命された。善政を敷き、呉に侵犯の機会を与えなかったという。また、呉の軍事行動について諸葛誕から助言を求められ、諸葛誕をよく補佐した。
曹爽が専横を極めるようになると、『時要論』を著し批判した。まもなく病気により免職となった。河南尹に任命されそうになったが、曹爽が失脚するとかつて曹爽の属官であったことから、就任が見送りとなった。しかし、その年のうちに復帰し尚書となり、地方に出て荊州刺史・揚烈将軍となった。
250年、王昶を中心とする呉征伐に、州泰と共に別将として参加し、夷陵において呉の歩協を攻撃した。しかし、歩協は城門を閉ざし戦おうとしなかった。王基は歩協を牽制しつつ、別働隊を編成して兵糧庫を襲撃し、30万石の兵糧を奪った。また、安北将軍の譚正を捕虜とし数千人を降伏させ、夷陵県を設置し降伏者に入植させた。この功績により関内侯となった。次に上昶の地に江夏の役所を移し、を牽制させたため、呉はを超えて侵攻することが難しくなった。王基は軍隊と農業を整備するとともに、学校を設けるなど治績も挙げたため、南方で名声を得ることになった。朝廷が王基に対し呉征伐の続行を具申したが、王基は状勢を具体的に分析した上で時期尚早であると進言し、呉征伐を見送らせた。その後、が政権を握ると、書状を送り政治家としての心得を伝授したため、司馬師もこれを受け入れている。州泰・・と共に州郡を治める諸将の一人として名が挙がっている(『晋書』「景帝紀」)。(高貴郷公)の時代には常楽亭侯となった。
この記事は日本語版ウィキペディアの「王基」をもとに作成されており、 (r100227843) CC BY-SA 4.0 ライセンスのもとで利用できます。原文の投稿者一覧は 原文の履歴で確認できます。
最終更新 2026/10/16 14:44 · r211068 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。