溝口秀勝
溝口 秀勝は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。越後国新発田藩の初代藩主。
生誕~死没 1548年 ~ 1610年11月13日最終更新 2026/10/16 14:48
溝口 秀勝(みぞぐち ひでかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。越後国新発田藩の初代藩主。
生涯
天文17年(1548年)、溝口勝政の長男として尾張国中島郡西溝口村(現愛知県稲沢市西溝口町)に生まれた。幼名を竹丸、のち元服して金右衛門尉定勝と称した。
幼少時より丹羽長秀に仕えたが、天正9年(1581年)に織田信長からその才能を見出され、直臣として若狭国大飯郡高浜城(現福井県大飯郡高浜町)5,000石を与えられた。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死した後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属した。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い後、越前国北ノ庄城に入封した丹羽長秀の与力として、加賀国江沼郡大聖寺城(現石川県加賀市大聖寺町)4万4000石を与えられた。
天正13年(1585年)、長秀が死去し、その長男・が家督を継いで北ノ庄城主となるが、閏8月、若狭に転封となり、代わって北ノ庄城に入封したの与力として引き続き配属された(この時、秀吉よりを与えられ、独立した大名となったといえる)。
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