孫資
孫 資は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての人物。字は彦龍。并州太原郡中都県の出身。子は孫宏。孫は孫楚。
生誕~死没 年不詳 ~ 251年最終更新 2026/10/16 14:52
孫 資(そん し、? - 251年)は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての人物。字は彦龍。并州太原郡中都県の出身。子は孫宏。孫は孫楚。
略歴
幼くして両親を失い、兄夫婦に育てられ、太学で学んだ。王允は彼を一目見て只者でないと感じた。曹操が司空になると彼を招聘したが、孫資は殺された兄の仇を討った直後であったので、家族を連れて河東郡へ逃げた。その後も郡に招聘されるものの応じなかったが、友人の賈逵に勧められて仕官した。そこで上計吏となり、荀彧から高く評価され尚書郎に任命されたが、断って河東へ戻った。(『三国志』劉放伝注引『孫資別伝』)
孫資は県令を歴任し、参丞相軍事となった。魏国が建てられると劉放と共に秘書郎を任された。曹丕(文帝)が即位すると劉放と共にそれぞれ左丞・右丞となり、黄初年間初期に秘書が中書と改められると、劉放が中書監、孫資が中書令となってそれぞれ給事中を兼任した。また孫資は関中侯、劉放も関内侯を与えられ、機密を取り扱った。
黄初3年(222年)に孫資は関内侯となり、曹叡(明帝)が即位すると劉放と共に散騎常侍を加えられ、楽陽亭侯となった。太和年間末、呉が遼東の公孫淵を誘うため将を派遣したとき、孫資は他の臣下が反対する中で迎撃を主張して成功したため、その功績で左郷侯となった。青龍年間初め、侍中・を加えられ、2年(238年)に遼東が平定されると、参謀としての功績により爵位を与えられ、中都侯となった。
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