ベトナム — OpenHistory
南シナ海南部のスプラトリー諸島 を「長沙諸島」(ちょうさしょとう、ベトナム語 :Quần đảo Trường Sa / 群島長沙、クァンダオ チュオンサ)と呼称して自国領と主張し、一部を実効支配 している。南シナ海中部のパラセル諸島 (ベトナム名は「黄沙諸島」)についても領有権を主張している2 。
概要 ベトナム国家の始まりは、中国 の南東岸に住む「百越 」という諸民族が南下し、現在のベトナムの地に遷移して、原始的だが小規模な国家群を形成したことに由来する。漢 ・唐 の時代には中国の侵略に抵抗できず、中国からの直接支配を受けたが、10世紀には独立した3 。
人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチ は、政府が言論・結社・報道・信仰など人民のあらゆる基本的自由を制限しており、刑事司法は政府からの独立性に欠け、警察は自白を引き出すために拷問を多用するという人権侵害 が極めて深刻な国であることを報告している9 。
経済面では、1978年のカンボジア侵攻 後の国際的孤立の中で国際収支が悪化して経済危機に陥り、干ばつや洪水などの自然災害による食糧不足などが重なって大量の難民を出す事態に陥った3 。その対策として1986年にドイモイ を打ち出し、経済の自由化を進めた。外国資本の導入で製造業は活況を呈し、南シナ海 で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品になっている4 。他方でドイモイの進展で貧富の格差は拡大している3 。
人口は2023年に1億人を超え、1億30万人(2023年ベトナム統計総局)。住民はキン族 (ベトナム人)が約86%を占め、他にミャオ族 、チャム族 など53の少数民族が存在している3 18 。
公用語はベトナム語 で住民の大半が使用しているが、一部に少数民族の言語も存在する3 。表記方法としては古くは漢字 が用いられ、13世紀からはチュノム という漢字を基に作られた独自の民族文字が使用されるようになったが、フランス 統治時代以降はチュ・クオック・グー と呼ばれるローマ字 表記が用いられており、現在は漢字とチュノムは廃れている20 。
国名 正式名称はベトナム語 で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam " ( 聞く)。略称は "Việt Nam " (ベトナム語発音: [viət˨ nam˧] ( 音声ファイル))である。ベトナム語の漢字 (チュハン )では「共和社會主義越南 」「越南 」となる。
1802年に現代とほぼ変わらない領土で統一した人物は、阮朝 の創始者の阮福映 (嘉隆帝)である。1804年には清 の嘉慶帝 から越南国王 に封ぜられ 、「越南」を正式の国号 とした、阮朝は最初清に「南越 」の号を求めたが、嘉慶帝は「越南 」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
ロシア語 で「Вьетнам」と書き、ラテン文字表記法 の学術表記で「V'etnam」になり、日本語 表記は「ベトナム 」となる。しかし「i」があるベトナム語による「Việt」の正しい発音は「ベト」ではなく「ヴィエッ」であることから、一部文献などでは「ヴェトナム 」「ヴィエトナム 」「ヴィエットナム 」などの表記もみられる。漢字文化圏 の国家なので漢字で「越南 」(えつなん)の表記もあり、越 (えつ)と略す。「越南」の表記を用いながら「ベトナム」と呼ぶこともある。現在の日本国 の外務省 ではカタカナ で「ベトナム 」「ベトナム社会主義共和国 」の表記を用いるが、かつてはベトナム語の発音に近い「ヴィェトナム社会主義共和国」の表記となっていた。
公式の英語 表記は "Socialist Republic of Vietnam " 、略称は "Vietnam "、または "SRV "。1976年6月24日、ベトナム戦争 後初の南北統一国会 (第6期国会第1回会議)が招集され、7月2日の国会決議により現在の国名が決定された21 。2013年の憲法改正時に、「ベトナム社会主義共和国」の国名を、1945年のベトナム八月革命 によって独立した時の国名「ベトナム民主共和国 」に改める動きが報じられた22 23 が、改正案から国名変更部分は除外され、変更はされなかった24 。
歴史
石器文化 今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス )が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省 )、ソンビー(フート省 )やライチャウ、ソンラ、バクザン 、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧 で、万能石器である26 。
最終氷期 が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器 がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器 が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器 を伴い、石製の鋤 ・鍬 が見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾 して農業 ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから、犬 や豚 を飼って畜産 を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟や採取、場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる27 。
青銅器文化
北属期
越人王朝の形成
北部 - 唐末五代十国 の混乱で中国の支配が後退すると939年の白藤江の戦い で最初の民族王朝呉朝 が成立(北属期の終わり)。965年に十二使君の乱 が起こり、966年に丁朝 が成立。980年に黎桓 が前黎朝 を興し、981年の白藤江の戦い で宋 軍を追い返すことに成功。1001年に李朝 の成立。宋は「安南国」を朝貢国 として承認した。1054年に国号を「大越」としたが、19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。以後、越人の王朝「大越」は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗 へ譲位させることに成功し、陳朝 が成立。
中部 - チャンパ王国
南部 - クメール王朝
モンゴルの侵攻
第四次北属期 14世紀に陳朝の都昇龍 (タンロン)を2度攻略した制蓬峩 (チェーボンガー、Chế Bồng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚 による王位簒奪 が起こった。陳朝に代わった胡朝 がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏 が、元に代わった中国・明 の永楽帝 に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争 (明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期 (1407年-1427年)となり、明よって「交阯 」(Jiaozhi、Giao Chỉ、交趾)との地名で呼ばれた。
南進時代 黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸 による簒奪王朝莫朝 が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河 を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏 が支配し、中部には広南阮氏 による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ、日本は広南阮氏と交易し、ホイアン に日本人町ができ来遠橋 などが建てられた。
広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタ へ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世 (在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(英 : Prey Nokor、現ホーチミン市 )に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン 沖に明朝 遺臣を名乗る楊彦迪(ズオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch )、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên )らの率いる50隻余の艦隊が出現して広南国への亡命 を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった29
1693年に広南阮氏の武将阮有鏡 がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省 ・カマウ省 に勢力を伸ばしていた鄚玖 の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り、広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶 の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人 居住領域の併合を行う。
西山朝
阮朝 西山朝に内紛の兆しが見えると、阮福映 が1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝 (1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する30 。
フランス植民地支配 1883年6月、トンキン戦争 (1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約 (第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナン とトンキン がフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定 (李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約 (第2次フエ条約、パトノートル条約)で清への服従関係を絶つ。
1884年8月、清仏戦争 (1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約 で、清は宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ 連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地 に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立し、フランスにより植民地化された。日本では「仏印」と呼ばれた。
反仏独立運動 フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム (黄花探、通称「デ・タム」)などが知られる。
1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦
アメリカの介入と南北分断時代
インドシナ戦争
ベトナム戦争
南北ベトナム再統一以後 1976年4月、南ベトナム 消滅による南北統一、初の南北統一選挙が行われた。1976年7月2日、ベトナム民主共和国 をベトナム社会主義共和国 に改名。1976年12月、ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイで開き、旧名称であるベトナム共産党 を再度採用した。
カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争 戦争が継続される一方、国内の産業は混乱、経済は低迷した。特に、1979年の農業 は農地の集団化が進まないなどの理由でコメの生産が計画量に達せず、軽工業 も人材不足や原材料の輸入途絶で生産が停滞した。五か年計画 は破綻し、コメの配給が行われない地区も発生した36 。
1986年7月、レ・ズアン が死去。12月、第6回全国代表者大会以降、チュオン・チン 国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ (刷新)政策」を開始し、改革・開放路線に踏み出す。1988年3月14日、ジョンソン南礁 が中華人民共和国に占領される(スプラトリー諸島海戦 )。カンボジア・ベトナム戦争で勝利してヘン・サムリン 率いる親ベトナム政権を成立させた代償にソ連圏を除く国際社会から孤立し、国内経済が疲弊しており、1989年9月、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。カンボジアからの撤退を命じたグエン・ヴァン・リン らが1990年に秘密裡に訪中し、1991年に中国を訪れたヴォー・チ・コン 国家評議会議長が江沢民 総書記と会談、越中関係を正常化させた。
関係改善期 2011年、グエン・フー・チョン が書記長に就任。反腐敗運動を進め権力集中が進む。2021年、コロナウイルスによる社会の混乱から異例の3期目となる37 。2023年、汚職によりナンバー2であったグエン・スアン・フックが失脚38 し、2024年3月にはフックの後任となっていたヴォー・ヴァン・トゥオン も「党の規律に違反する行為」があったとして失脚。同年4月には、ヴオン・ディン・フエ 国会議長も「党の規則に違反し、党や国家の威信に影響を与えた」ことを理由に任期途中の辞任が承認された39 40 。
政治
統治体制 南北統一の歴史的経緯として指導者のバランスを取ることで融和を目指す事が慣例であったが破られた46 。
政府の運営は極めて官僚 的であり、市場経済化しつつ政治の民主化は認めない中国共産党 独裁下の中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを簡素化するなど、投資の透明性や効率性を向上させようとしている47 。
立法 立法府たる一院制 の国会 は憲法 では「国権の最高機関」とされ、定員500名、任期5年。ただし、一党独裁制であるため、国会は重要な役割を果たしてはいない48 。全立候補者は共産党翼賛組織の「ベトナム祖国戦線 」の審査で絞り込まれる49 。投票率は9割以上だが、家族や組織の代表者による代理投票が行われており、実際の投票経験はない国民も多い50 。
国会議員の9割以上は共産党員であり、1986年以降は政府批判の発言も見られるが、党の指導 は絶対的である50 。
住民登録 長らく戸籍で国民を登録していたが2021年7月1日に戸籍簿の発行が終了51 、2023年1月1日52 、個人を単位とする住民データベースに移行53 。
国際関係
中国との関係 中国の王朝から侵略や支配を受け938年にその支配を脱した。
領土問題を抱えているが友好国の一つでベトナム共産党を二分する派閥は親中派である55 。
台湾との関係 台湾 には、在台ベトナム人 (在台越南人)とベトナム系台湾人 (越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争 後の難民や出稼ぎ労働者 、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2019年時点で在台外国人約76万人のうち、在台ベトナム人 は約22万人と29%を占める57 。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
北朝鮮との関係
韓国との関係 ベトナム戦争に韓国がアメリカの参戦要請により参加60 、ハミの虐殺 、性暴力、性暴力による出生または民間人との間に出来た子供の置き去りとなったライダイハン 問題などが起こる61 62 。
なおベトナム政府はベトナム戦争の問題では韓国政府への謝罪、補償の要求は行っておらず補償を求めているのは個人である63 。
1992年にかつての北ベトナムであるベトナムと国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物京南ハノイランドマークタワー を所有し、またホーチミン市でも一番高い建物であるビテクスコ・フィナンシャルタワー をヒュンダイ グループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。特に中国から携帯電話の生産拠点を移したサムスン電子 は2016年の輸出総額の2割近くを占めている64 。
ベトナム人労働者や結婚移民を送り出しており2019年の韓国における結婚移民ではベトナム人が4万人で最も多かった65 。
アメリカ合衆国との関係 第二次世界大戦 中は、アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたるベトミン との関係は対日戦の盟友であった。日本軍優勢のころにインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したりしたアメリカ軍航空隊の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている66 。また、アメリカ軍が潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている67 。1940年代後半の独立時に制定された憲法 は、旧宗主国フランスのみならずアメリカ合衆国憲法 をも参考に作られており、1950年代にアメリカでレッド・パージ (マッカーシズム )が起こったころには、一時、自らの共産党 を法的に非合法組織としたことすらあった。
政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ 大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の枯葉剤 などについても、あえて「民間団体」に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っている。一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米 的な珍しい例である68 。2010年8月には国交復活15周年を記念し、空母ジョージ・ワシントン が中部ダナン市 を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却して未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
アメリカは、南ベトナムからは82万人もの難民を受け入れた。ベトナム系アメリカ人 が故郷に旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義の本土とは対立が根深く、政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
フランスとの関係 1887年(明治 20年)- 1945年(昭和 20年)。
1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦 が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナ に日本軍 が進駐した(仏印進駐 )。当時は、日本とドイツ が同盟 を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本はその隙を衝いて仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「大東亜共栄圏 」の建設を呼号し、明号作戦 の結果、カンボジアとラオスと同時期の1945年3月11日、ベトナム帝国 としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、阮朝 が王政復古 を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけて一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。日本のポツダム宣言 受諾表明に至る1945年8月14日から15日にかけて、インドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
日本との関係 戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟 (ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは保大帝 を退位させてベトナム八月革命 を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の帝国主義 国に過ぎないと見做されている72 。
第二次世界大戦 末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死 者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、国内ではこの200万人という数字は広く知られている(「ベトナム独立宣言 」参照)が、日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている(『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波現代文庫 、2005年)。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により「経済協力」の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。
第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、フランス軍 とベトナム民主共和国 軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争 )が始まった。ベトミン に残留日本兵 が多数参加し、独立に対して多大な貢献をした。当時、766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校 を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵が政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって日本へ帰国した150人以外は、なお留まり続けた模様である。
一方、ベトナム民主共和国 (北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の1973年7月より、フランスの首都パリ において国交交渉が開始される。同年9月21日には交換公文 が交わされ、大使級の外交関係が樹立された73 74 。また、国交樹立の合意に伴い「経済協力」の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。
現在,日越関係は「アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ」の下、政治、経済、安全保障、文化・人的交流など幅広い分野で緊密に連携している。日越間の交流の増加を受けて、1997年の在大阪 ベトナム総領事館開設に続き、2009年に在福岡 ベトナム総領事館、2010年に在釧路 ベトナム名誉領事館と在名古屋 ベトナム名誉領事館が開設された77 。
皇太子徳仁親王 (当時)は2008年(平成 20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し78 、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイ 、ダナン 、ホイアン 、ホーチミン市 と、各地を縦断して訪問し、明仁上皇 が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川 支流で新種のハゼ が見つかったことを明らかにした学術論文 をハノイ自然科学大学に寄贈した79 。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している80 。
査証 (ビザ)に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する口上書 を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている81 。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である82 。
日本の広報拠点として、2002年にJICA プロジェクトとしてベトナム日本人材協力センター (VJCC) が開設され、2008年に国際交流基金 のベトナム日本文化交流センター が開設された。
日本語教育 については、1943年(昭和 18年)にサイゴンで日本語 が教えられていたとの記録がある。2003年に国際交流基金の「ベトナム中等学校における日本語教育試行プロジェクト」が始まる。2021年時点で日本語学習者数は169,582人。2023年5月時点で、日本への留学生数は36,339人で、国別では第3位86 。
2016年9月9日、「日越大学 」が開校した、日本の政府と大学が協力する87 。
軍事 ベトナム人民軍 (Quân đội Nhân dân Việt Nam/軍隊人民越南)は独立前の1944年12月22日に建軍された。徴兵制度 を採用しており、18歳から27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵 の三結合方式による全国民国防体制を採用する。
国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権 を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会 であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。
中越戦争 時には総人口5000万人台に対して正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、現在では総人口約9000万人に対して48万4000人まで削減された。人員は陸軍 が41万2000人、海軍 が4万2000人、防空・空軍 が3万人である。このほか、予備役 と民兵が合わせて300万人~400万人いる。予備役将校 の職業は様々で、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドル である。
外国との軍事協力 インド とは2022年6月に、相互の軍事基地を補給・補修に使う、外国との初の協定を結んだ90 。以前からインド海軍 はベトナム人民海軍 将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請したこともある91 。
2014年には国際連合平和維持活動 に初参加した92 。また2022年12月上旬には国として初の大規模国際防衛展示会を開催し、米露など30カ国が参加した93 。
地理
概要 ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島 の太平洋 岸に平行して南北に伸びるアンナン山脈 (チュオンソン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、米かごを吊るす天秤棒 に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタ地帯 は紅河 (ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市 ハイフォンが位置する。南のデルタ地帯はメコン川 によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
デルタ地帯 5月から11月にかけて、インド洋 を渡ってやってくるモンスーン (季節風)が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川の至る所で堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタ や南部のメコンデルタ が、重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である94 。
平野 ベトナム北部には、紅河、マー川(タインホア省)やラム川(ゲアン・ハティン省)の下流域などに大きな平野が広がっている。紅河平原の面積は約15,000平方キロメートルで一面が水田であり、人口は6,500,000人(1931年時点)を擁し、そのほとんどは農民である95 。
気候 北回帰線 よりも南に位置し、赤道 近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーン の影響を強く受ける。7月から11月まで台風 の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。
南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候 〈Aw〉、ホーチミン市など一部地域は熱帯モンスーン気候 〈Am〉96 )97 。平均気温は1月が18℃、7月が33℃だが、平均降水量は1,000mmと少ない。
北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江 (メコン川)が広がる。
紅河デルタにあるフーリーでは、1980年から1995年の月別平均気温は、1月16℃、2月15℃、3月19℃、4月22℃、5月26℃、6月27℃、7月28℃、8月27.5℃、9月26℃、10月24℃、11月21℃、12月19℃である98 。
ハノイの気候(温帯夏雨気候)
ホーチミン市の気候(サバナ気候)
生物多様性 ベトナムでは15,986種の植物相が確認されており、その内の10%が固有の植物で占められている。動物相には、307種の線虫 類、200種の貧毛綱 、145種のダニ 類、7,750種の昆虫 (うち113種はトビムシ目 )、260種の爬虫類 、120種の両生類 が含まれている。また840種の鳥類 と310種の哺乳類 が生息しており、うち100種の鳥類と78種の哺乳類が広範囲に分布している。他は水生無脊椎動物 が794種、海水魚が2,458種を占めている。 淡水に生息する微細藻類も1,438種存在しており、全微細藻類の9.6%がベトナム国内での生息を確認されている。
環境 ベトナムでは、先述での戦争時において使用された枯葉剤などの化学物質による影響から、多くの問題を抱えている一面がある。
また、野生動物の密猟 が大きな懸念事項となっている。
2004年時点で生物多様性の保全に4,907万ドルを費やしており、30の国立公園を含む126の保全地域を設立している。現在は9つの生物圏保護区が設けられている。
地方区分
端 陸上の極地 (2) 海岸線の極地 (2) 海上の極地 (2)
地方行政区画 2025年1月の改正により、57省と、6の中央直轄城庯(市)となった。中央直轄城庯はハノイ (河内)、ホーチミン市 (胡志明)、ダナン (沱㶞)、ハイフォン (海防)、カントー (芹苴)、フエ (化)。国土最北に位置する省はハーザン省 (Hà Giang , 河楊)、国土最南に位置する省はカマウ省 (Cà Mau ) である。自治体独自の旗を禁止しているため自治体ごとの旗は存在しない99 。
主要都市
ハノイ (Thành phố Hà Nội、城庯河内)
ホーチミン市 (Thành phố Hồ Chí Minh、城庯胡志明)
1区 : 旧サイゴン (Sài Gòn)(柴棍)
5区 : 旧チョロン (Chợ Lớn)(𢄂𡘯)
クチ県 (Củ Chi): クチ(糾支)
ダナン (Thành phố Đà Nẵng、城庯沱㶞)
ハイフォン (Thành phố Hải Phòng、城庯海防)
カントー (Thành phố Cần Thơ、城庯芹苴)
ヴィン (Thành phố Vinh、城庯永)
フエ (Thành phố Huế、城庯化)
ホイアン (Thành phố Hội An、城庯會安)
ニャチャン (Thành phố Nha Trang、城庯芽莊)
ファンティエット (Thành phố Phan Thiết、城庯潘切)
ミトー (Thành phố Mỹ Tho、城庯美湫)
テイニン (Thành phố Tây Ninh、城庯西寧)
ヴィンロン (Thành phố Vĩnh Long、城庯永隆)
ダラット (Thành phố Đà Lạt、城庯多樂)
住所表記 欧米の多くと同様に、細かい分類から順に表記し、またストリート によって住所を表す。番地は、偶数が左車線側、奇数が右車線側のように分かれ、ストリート名のない細かい路地に入る場合は、7/40(40番地にある路地内の7番目)のように表記する。例として、ホーチミン市1区人民委員会 の住所を下記に記す。
Ủy ban nhân dân Quận 1 - 47, Đường Lê Duẩn, Phường Bến Nghé, Quận 1, Tp Hồ Chí Minh, Việt Nam
(1区人民委員会 - 47番地、レ・ズアン通り、ベンゲー坊、1区、ホーチミン市、ベトナム)
経済 ベトナム統計総局の統計によると、2023年のGDP (国内総生産)は約4,300億ドル 。一人当たりのGDPは4,285ドルである100 。
1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に市場経済 システムを取り入れるというドイモイ政策 を採択、中国の改革開放 と同様に市場経済路線へと転換した。1996年のベトナム共産党第8回大会では、2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。ドイモイ政策の導入以降、貧困率は大幅に改善され、1993年の58.1%から2015年には5%以下となった101 。
政府開発援助 と外国投資が経済を牽引している。2007年には政府にとって重要な目標となっていた世界貿易機関 (WTO)に加盟した。世界金融危機 で一時失速した国内総生産 (GDP) の成長率も、2010年代は平均して5~6%の安定成長が続いている。一方インフレ率は、2011年に18.7%と高い数値を記録したが、2017年には3.5%となった。中国では人件費 が上昇基調にあることから、新たな投資先として注目が集まっている。欧州連合 (EU)は新興国 で初のFTAを結ぶ相手にベトナムを選び102 103 、2020年8月1日に発効した104 。
NEXT11 やVISTA の一角にも数えられており、今後一層経済の発展が予想されている。1日1ドル以下で生活する貧困層の割合は中国、インド、フィリピンを下回る。
主な輸出品目は原油 、衣料品、農水産物。特にコメ については、インド、タイに次ぐ世界第3位の輸出国である109 。カシューナッツ と黒胡椒 の生産は世界の1/3を占め1位。コメのほかコーヒー 、茶 、ゴム 、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。
安い人件費、ODAを活用したインフラ整備を背景に外国資本の受け入れでASEANで高い経済成長を続けている110 。
社会主義国として経済の根幹をなしてきた国有企業とは別に、民間企業が台頭している。不動産 会社として2001年に起業 した後に小売業 、製薬 、学校 ・病院 経営、農業・飼料 からベトナム初の自動車 生産にまで進出したビングループ 、ベトジェット を傘下に持つソビコ・ホールディングス、不動産業のFLC、BRGなどが財閥 を形成しつつある。これらを含めた大手企業の経営者は10大富豪と呼ばれる。旧ソ連 への留学組が創業・経営し、政治家や政府高官との人脈を利用して事業を成長させてきた例が多いと指摘されている111 112 。
2010年8月4日、ベトナム公安省は、乱脈経営で国営ベトナム造船グループ(ビナシン )を経営危機に陥れたとして、同グループの前会長を背任に当たるとして逮捕した。前会長は親族を重要ポストに登用するなど私利を図っていた疑いがもたれている。
2011年11月8日、2011-2015年の社会経済発展計画を政府が提案し、国会で承認された。国内総生産年平均6.5-7%の成長率を目指し、公共投資や国営企業の改善を通じた経済構造の再編を図るものである。
投資 2023年にベトナム政府が認可した海外から同国への直接投資額は下記の通りである(出典:ジェトロハノイ事務所)。
農業 コーヒーは、現在ではブラジル に次いで世界第二位の生産量(162万トン、113 2023年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料 、製菓用途で使われる安価なロブスタ種 (カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種 の栽培も始まっている。また、現地では基本的に植民地 支配を受けたフランス の手法を取り入れた飲み方にてベトナムコーヒー が飲まれる。
鉱業 石炭 や南シナ海 で採掘される石油 を中心とした有機鉱物資源、スズ を中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。石炭技術で釧路コールマイン との繋がりが太く、北海道釧路市 に名誉領事館を設置している。2003年時点の採掘量は1,670万トン。原油 は1,660万トンのを産出する産油国 でもあり、天然ガス の採取量は126千兆ジュール となっている。
金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。最も重要なのが世界第4位のスズ (4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。亜鉛 、金 、クロム 、鉄 、鉛 のほか、リン鉱石 を産出する。
エネルギー ベトナムの電力の大部分は、石炭 、石油 、ガス などの火力発電 または化石燃料 発電によって生産されており、その他にはディーゼル 、小さな水力発電所での水力発電 、再生可能エネルギーを用いた発電が挙げられる。これらが現在も国の電気を供給している。
観光産業
交通 ベトナムの都市部ではバイクが主な移動手段として広く利用されている。自動車の利用も増加しているが、交通渋滞が深刻な問題となっている。公共交通機関としては、バスが主要な手段であり、ハノイとホーチミン市では都市鉄道(メトロ)の建設が進められている。国内の長距離移動には鉄道や国内線航空が利用される。
道路
鉄道
空港
科学技術 ベトナムの科学技術に対する国家支出は、2010年時点でGDPの約0.45%に達している。
国民 ベトナム社会主義共和国憲法 第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家 であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書 を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族 籍を記入する欄が設けられている114 。
人口 ベトナムの総人口は、2022年現在で9,832万人となっている。1988年以降「2人っ子政策」をとってきたが、2017年を以って廃止された115 。
民族構成
言語
文字 ベトナムにおける漢字 。上記のチュ・クオック・グーが公用文字となるまで、ベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としてはもっぱら漢文 (古中国語)が用いられた。チュ・クオック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。北ベトナム では1950年の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、1954年には漢字の公的な使用を全廃、南ベトナム では1975年の崩壊まで中等教育 での漢文科が存続していた。2014年現在では、僧侶 か日本語 や中国語 の学習者しか読めなくなっている。
ベトナム語を表記するために13世紀に発明された合成漢字。固有語の表記に用いられ、漢字と混ぜ書きされた。
など、複数の造字法があり複雑で、一時期を除いて公用文字に採用されることはなかったが、民族意識の高まりを背景に民間では有識者層を中心に普及し、18世紀から19世紀には多くのチュノム文学 が生まれた。20世紀になると、漢字の画数が複雑過ぎる事で、初等教育 に支障を来す事や、チュ・クオック・グーの普及により、急速に衰退の道を辿った。
人名 主要民族であるキン族 を中心に、人名の多くは、漢字文化圏 に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓 と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓 となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(tên đệm、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字 、朝鮮 の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。
名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語 による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムを持つものがある。
宗教 それぞれの公認教団の信徒数は、2008年の資料で仏教1,000万人、カトリック550万人、カオダイ教240万人、ホアハオ教160万人、プロテスタント100万人、イスラム教6万5千人となっている118 。公認教団の一例としてはベトナム仏教僧伽 がある。
憲法では、信教の自由 を人民に保障しているが、同時に信仰に制限があることも法律に明記している。過去には2001年、2004年に、ベトナム政府に土地を奪われた山岳民族による暴動が元で、プロテスタントの弾圧が起きた。また、政府非公認教団である「統一ベトナム仏教教会」が弾圧に抗議して1992年に騒擾事件を起こす事件も発生している。2014年現在でも、非公認プロテスタント教団の活動は第三級行政区レベル(坊、社、市鎮)に留められており、より上位の行政区では活動ができないなどの各種制限が存在する118 。
また、ベトナム共産党 員はホー・チ・ミン 元国家主席 のみを信仰する傾向がある。無論ホー・チ・ミン信仰は「宗教ではない」が、それに匹敵する影響力を有する(ホー・チ・ミン自身は、自らが個人崇拝 の対象になることを、徹底的に嫌っていた程であった)。
教育 成人識字率 は、95.8%(2019年、米CIAによる)119 。学校で勉強する必修の第一外国語は英語が一般的である。英語以外にはロシア語、フランス語、中国語、日本語、韓国語、ドイツ語がある120 。
6歳から始まり、小学校5年間、義務教育、学費は原則無料。
基礎中学校(前期中等教育、日本での中学校に相当)4年間、普通中学校(後期中等教育、日本での高等学校に相当)3年間。
ベトナムの大学 には国家大学(首相直轄校)、国立大学(地方総合大学、専門大学:教育訓練省 、厚生省、文科情報省、人民委員会などの所轄)、民立大学がある。
教育行政 教育行政は、中央に教育訓練省、地方の省レベル121 に教育訓練局、県レベルに教育課がある。学校段階別の管轄関係は基本的には次のようになっている。高等教育は教育訓練省、普通中学は教育訓練局、基礎中学・小学校・幼稚園・保育園は教育課。これら教育行政機関の職員は「教育管理幹部」と呼ばれ、教育経験者。教員の資格要件は、幼児教育と初等教育で中等師範学校卒、前期中等は師範短期大学卒、後期中等教育は大学卒となっている122 。
保健
衛生環境 ベトナムには豊富な地表水と地下水資源が存在するが衛生設備が整っていない状態が今も続く為、乾季には局地的な水不足が発生する問題点を抱えている。
医療
治安 ベトナムは近隣国のタイ やミャンマー 、フィリピン に比べてば治安が安定していると言われていたが、近年の経済発展による貧富の格差拡大や地方貧困層の都市部への流入などに伴い、治安状況が悪化して行く傾向が見受けられる。現在、殺人 や強盗 などの凶悪犯罪の発生は少ないものの、外国人 住居 への忍び込み、繁華街 周辺でのひったくり 、スリ や置き引き などの窃盗 事件が発生しており、特に日本人旅行者は空港や市場 、路上 、ホテル 、レストラン などで旅券 や現金 などの貴重品の盗難 被害に遭うケースが頻繁に報告されている実状がある為、身の安全の確保の為にも不要な散策などは安易に行わない姿勢が求められる。
また同国治安当局は、これまで国内にテロ 組織や反政府組織は存在しないとしていたが、国外においては2016年に在外反政府組織「ベトタン」をテロ組織として扱うとの報道がなされており、当局がベトナム人海外移住者(越僑)を主体とする反政府活動家の活動に対して警戒を強めている現状がある。
なお、政府の土地収用をめぐって国内の至る所で争議が頻発しており、2020年1月にはハノイ市近郊において警察官3名が死亡する大規模な騒擾事件が発生するなど、政府に対する抗議活動が行われている123 。
法執行機関
人権
人権問題 アムネスティ・インターナショナルは、Facebook、Googleがサービスを提供しているが、政府の検閲に協力しているとしている125 。
LGBTの権利 主に南部では、タイ やカンボジア と同様に、トランスジェンダー 文化の伝統があるが、主に儒教 の影響から同性結婚 は長らく認められず、2002年に国営メディアでは同性愛 を売春や賭博、違法薬物などと並ぶ「社会悪 」であるとの認識を表明し、同性愛の規制や同性愛カップルの逮捕を行える法整備を確約した126 。しかし世論の高まりとともに、2009年に初の女性への性別変更と改名が認められる判例が生まれた。2013年には同性愛の禁止と罰金制度が法律から削除され127 、また同性カップルの同居に対して、正式な結婚には劣るが、ある程度の権利が認められた。しかし後にこの権利条項は削除されている128 129 。2025年3月時点、同性愛は禁止こそされてはいないが、法律婚など法的な権利が認められているわけでもない。
マスコミ
新聞と雑誌 前述の通りこれらは全て政権党関係の機関紙であるが、『トゥオイチェー』紙は比較的革新的な編集方針を採っており、タブー視されているホー・チ・ミンの過去の経歴を掘り下げる報道や134 、近ごろの若者はホー・チ・ミンよりビル・ゲイツ に憧れているなどの報道を行い、当局と度々衝突を起こしている135 136 。
報道規制
通信
インターネット
文化
食文化 飲酒 量が多く、世界保健機関 (WHO)が2018年に発表した調査結果によると、ベトナム人が1年間に摂取するアルコール 量は8.3リットル と、世界平均(6.4リットル)を上回る。特にビール が好まれ、企業別生産量シェアは、タイ企業傘下のサイゴンビール・アルコール飲料総公社(サベコ)43%、ハイネケン 25%、ハノイビール・アルコール飲料総公社(ハベコ)15%、カールスバーグ 8%の順である。日本のサッポロビール ホールディングスが2011年に進出して高級ブランドとして定着しているほか、日本円 換算で1杯数十円程度の樽詰め生ビール「ビア・ホイ 」が各所の大衆食堂で売られている。ベトナム政府は、国民の健康維持や飲酒運転 防止のため広告などの酒類規制を進めており、2019年6月にはベトナム国会常任委員会がアルコール被害防止法案を採択した141 。
文学
哲学
音楽
美術
芸能
映画
衣装
建築 ベトナムの建築は古代中国の文化から影響を受けている面が多く、呉朝以前から仏教建築 の影響の濃さが窺える。
近代における建築はフランス植民地時代に西洋文化の影響を強く受けている為、その点から建材にセメント が広く使われるようになり、ハノイ歌劇場 を始めとしたコンクリート 建築の建物が戦後から設けられている。
世界遺産
歴史文化遺産 1945年の独立後、ホーチミン主席令が出され、東洋博古学院が古跡保護の責任を持つようになった。現在は歴史文化遺跡指定制度を文化・情報省が行っており、現在の総指定件数約2800件のうち、約2000件は寺、ディン(亭、村の守護神が祀られている)、廟、デン(神社)が占めている。歴史文化遺産を代表するものにはヤックラム・パゴダ などがある。
1957年、遺跡保護に関する議定を制定し、1962年に初めて「歴史文化遺跡」が指定された。対象は不動産中心で、革命や抗仏戦史に関する史跡、考古学的遺跡、建築、景勝地などが指定された144 。
祝祭日
スポーツ さらに東南アジアサッカー選手権 では2度の優勝を誇り、代表チームが試合で勝利を収めると街にはベトナム国旗を持った人々が溢れ、国中が大変な盛り上がりをみせる。国内で人気の選手には「ベトナムの英雄」と呼ばれる**レ・コン・ビン **が存在する。同国代表の最多出場・最多得点者であり、2009年にはベトナム人 として初めてポルトガル1部 に移籍している。また、2013年にはコンサドーレ札幌 にも所属していた。
著名な出身者
参考文献
脚注
阮朝
南シナ海南部のスプラトリー諸島 を「長沙諸島」(ちょうさしょとう、ベトナム語 :Quần đảo Trường Sa / 群島長沙、クァンダオ チュオンサ)と呼称して自国領と主張し、一部を実効支配 している。南シナ海中部のパラセル諸島 (ベトナム名は「黄沙諸島」)についても領有権を主張している2 。
概要 ベトナム国家の始まりは、中国 の南東岸に住む「百越 」という諸民族が南下し、現在のベトナムの地に遷移して、原始的だが小規模な国家群を形成したことに由来する。漢 ・唐 の時代には中国の侵略に抵抗できず、中国からの直接支配を受けたが、10世紀には独立した3 。
人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチ は、政府が言論・結社・報道・信仰など人民のあらゆる基本的自由を制限しており、刑事司法は政府からの独立性に欠け、警察は自白を引き出すために拷問を多用するという人権侵害 が極めて深刻な国であることを報告している9 。
経済面では、1978年のカンボジア侵攻 後の国際的孤立の中で国際収支が悪化して経済危機に陥り、干ばつや洪水などの自然災害による食糧不足などが重なって大量の難民を出す事態に陥った3 。その対策として1986年にドイモイ を打ち出し、経済の自由化を進めた。外国資本の導入で製造業は活況を呈し、南シナ海 で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品になっている4 。他方でドイモイの進展で貧富の格差は拡大している3 。
人口は2023年に1億人を超え、1億30万人(2023年ベトナム統計総局)。住民はキン族 (ベトナム人)が約86%を占め、他にミャオ族 、チャム族 など53の少数民族が存在している3 18 。
公用語はベトナム語 で住民の大半が使用しているが、一部に少数民族の言語も存在する3 。表記方法としては古くは漢字 が用いられ、13世紀からはチュノム という漢字を基に作られた独自の民族文字が使用されるようになったが、フランス 統治時代以降はチュ・クオック・グー と呼ばれるローマ字 表記が用いられており、現在は漢字とチュノムは廃れている20 。
国名 正式名称はベトナム語 で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam " ( 聞く)。略称は "Việt Nam " (ベトナム語発音: [viət˨ nam˧] ( 音声ファイル))である。ベトナム語の漢字 (チュハン )では「共和社會主義越南 」「越南 」となる。
1802年に現代とほぼ変わらない領土で統一した人物は、阮朝 の創始者の阮福映 (嘉隆帝)である。1804年には清 の嘉慶帝 から越南国王 に封ぜられ 、「越南」を正式の国号 とした、阮朝は最初清に「南越 」の号を求めたが、嘉慶帝は「越南 」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
ロシア語 で「Вьетнам」と書き、ラテン文字表記法 の学術表記で「V'etnam」になり、日本語 表記は「ベトナム 」となる。しかし「i」があるベトナム語による「Việt」の正しい発音は「ベト」ではなく「ヴィエッ」であることから、一部文献などでは「ヴェトナム 」「ヴィエトナム 」「ヴィエットナム 」などの表記もみられる。漢字文化圏 の国家なので漢字で「越南 」(えつなん)の表記もあり、越 (えつ)と略す。「越南」の表記を用いながら「ベトナム」と呼ぶこともある。現在の日本国 の外務省 ではカタカナ で「ベトナム 」「ベトナム社会主義共和国 」の表記を用いるが、かつてはベトナム語の発音に近い「ヴィェトナム社会主義共和国」の表記となっていた。
公式の英語 表記は "Socialist Republic of Vietnam " 、略称は "Vietnam "、または "SRV "。1976年6月24日、ベトナム戦争 後初の南北統一国会 (第6期国会第1回会議)が招集され、7月2日の国会決議により現在の国名が決定された21 。2013年の憲法改正時に、「ベトナム社会主義共和国」の国名を、1945年のベトナム八月革命 によって独立した時の国名「ベトナム民主共和国 」に改める動きが報じられた22 23 が、改正案から国名変更部分は除外され、変更はされなかった24 。
歴史
石器文化 今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス )が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省 )、ソンビー(フート省 )やライチャウ、ソンラ、バクザン 、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧 で、万能石器である26 。
最終氷期 が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器 がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器 が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器 を伴い、石製の鋤 ・鍬 が見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾 して農業 ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから、犬 や豚 を飼って畜産 を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟や採取、場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる27 。
青銅器文化
北属期
越人王朝の形成
北部 - 唐末五代十国 の混乱で中国の支配が後退すると939年の白藤江の戦い で最初の民族王朝呉朝 が成立(北属期の終わり)。965年に十二使君の乱 が起こり、966年に丁朝 が成立。980年に黎桓 が前黎朝 を興し、981年の白藤江の戦い で宋 軍を追い返すことに成功。1001年に李朝 の成立。宋は「安南国」を朝貢国 として承認した。1054年に国号を「大越」としたが、19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。以後、越人の王朝「大越」は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗 へ譲位させることに成功し、陳朝 が成立。
中部 - チャンパ王国
南部 - クメール王朝
モンゴルの侵攻
第四次北属期 14世紀に陳朝の都昇龍 (タンロン)を2度攻略した制蓬峩 (チェーボンガー、Chế Bồng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚 による王位簒奪 が起こった。陳朝に代わった胡朝 がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏 が、元に代わった中国・明 の永楽帝 に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争 (明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期 (1407年-1427年)となり、明よって「交阯 」(Jiaozhi、Giao Chỉ、交趾)との地名で呼ばれた。
南進時代 黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸 による簒奪王朝莫朝 が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河 を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏 が支配し、中部には広南阮氏 による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ、日本は広南阮氏と交易し、ホイアン に日本人町ができ来遠橋 などが建てられた。
広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタ へ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世 (在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(英 : Prey Nokor、現ホーチミン市 )に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン 沖に明朝 遺臣を名乗る楊彦迪(ズオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch )、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên )らの率いる50隻余の艦隊が出現して広南国への亡命 を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった29
1693年に広南阮氏の武将阮有鏡 がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省 ・カマウ省 に勢力を伸ばしていた鄚玖 の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り、広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶 の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人 居住領域の併合を行う。
西山朝
阮朝 西山朝に内紛の兆しが見えると、阮福映 が1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝 (1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する30 。
フランス植民地支配 1883年6月、トンキン戦争 (1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約 (第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナン とトンキン がフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定 (李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約 (第2次フエ条約、パトノートル条約)で清への服従関係を絶つ。
1884年8月、清仏戦争 (1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約 で、清は宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ 連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地 に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立し、フランスにより植民地化された。日本では「仏印」と呼ばれた。
反仏独立運動 フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム (黄花探、通称「デ・タム」)などが知られる。
1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦
アメリカの介入と南北分断時代
インドシナ戦争
ベトナム戦争
南北ベトナム再統一以後 1976年4月、南ベトナム 消滅による南北統一、初の南北統一選挙が行われた。1976年7月2日、ベトナム民主共和国 をベトナム社会主義共和国 に改名。1976年12月、ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイで開き、旧名称であるベトナム共産党 を再度採用した。
カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争 戦争が継続される一方、国内の産業は混乱、経済は低迷した。特に、1979年の農業 は農地の集団化が進まないなどの理由でコメの生産が計画量に達せず、軽工業 も人材不足や原材料の輸入途絶で生産が停滞した。五か年計画 は破綻し、コメの配給が行われない地区も発生した36 。
1986年7月、レ・ズアン が死去。12月、第6回全国代表者大会以降、チュオン・チン 国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ (刷新)政策」を開始し、改革・開放路線に踏み出す。1988年3月14日、ジョンソン南礁 が中華人民共和国に占領される(スプラトリー諸島海戦 )。カンボジア・ベトナム戦争で勝利してヘン・サムリン 率いる親ベトナム政権を成立させた代償にソ連圏を除く国際社会から孤立し、国内経済が疲弊しており、1989年9月、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。カンボジアからの撤退を命じたグエン・ヴァン・リン らが1990年に秘密裡に訪中し、1991年に中国を訪れたヴォー・チ・コン 国家評議会議長が江沢民 総書記と会談、越中関係を正常化させた。
関係改善期 2011年、グエン・フー・チョン が書記長に就任。反腐敗運動を進め権力集中が進む。2021年、コロナウイルスによる社会の混乱から異例の3期目となる37 。2023年、汚職によりナンバー2であったグエン・スアン・フックが失脚38 し、2024年3月にはフックの後任となっていたヴォー・ヴァン・トゥオン も「党の規律に違反する行為」があったとして失脚。同年4月には、ヴオン・ディン・フエ 国会議長も「党の規則に違反し、党や国家の威信に影響を与えた」ことを理由に任期途中の辞任が承認された39 40 。
政治
統治体制 南北統一の歴史的経緯として指導者のバランスを取ることで融和を目指す事が慣例であったが破られた46 。
政府の運営は極めて官僚 的であり、市場経済化しつつ政治の民主化は認めない中国共産党 独裁下の中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを簡素化するなど、投資の透明性や効率性を向上させようとしている47 。
立法 立法府たる一院制 の国会 は憲法 では「国権の最高機関」とされ、定員500名、任期5年。ただし、一党独裁制であるため、国会は重要な役割を果たしてはいない48 。全立候補者は共産党翼賛組織の「ベトナム祖国戦線 」の審査で絞り込まれる49 。投票率は9割以上だが、家族や組織の代表者による代理投票が行われており、実際の投票経験はない国民も多い50 。
国会議員の9割以上は共産党員であり、1986年以降は政府批判の発言も見られるが、党の指導 は絶対的である50 。
住民登録 長らく戸籍で国民を登録していたが2021年7月1日に戸籍簿の発行が終了51 、2023年1月1日52 、個人を単位とする住民データベースに移行53 。
国際関係
中国との関係 中国の王朝から侵略や支配を受け938年にその支配を脱した。
領土問題を抱えているが友好国の一つでベトナム共産党を二分する派閥は親中派である55 。
台湾との関係 台湾 には、在台ベトナム人 (在台越南人)とベトナム系台湾人 (越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争 後の難民や出稼ぎ労働者 、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2019年時点で在台外国人約76万人のうち、在台ベトナム人 は約22万人と29%を占める57 。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
北朝鮮との関係
韓国との関係 ベトナム戦争に韓国がアメリカの参戦要請により参加60 、ハミの虐殺 、性暴力、性暴力による出生または民間人との間に出来た子供の置き去りとなったライダイハン 問題などが起こる61 62 。
なおベトナム政府はベトナム戦争の問題では韓国政府への謝罪、補償の要求は行っておらず補償を求めているのは個人である63 。
1992年にかつての北ベトナムであるベトナムと国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物京南ハノイランドマークタワー を所有し、またホーチミン市でも一番高い建物であるビテクスコ・フィナンシャルタワー をヒュンダイ グループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。特に中国から携帯電話の生産拠点を移したサムスン電子 は2016年の輸出総額の2割近くを占めている64 。
ベトナム人労働者や結婚移民を送り出しており2019年の韓国における結婚移民ではベトナム人が4万人で最も多かった65 。
アメリカ合衆国との関係 第二次世界大戦 中は、アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたるベトミン との関係は対日戦の盟友であった。日本軍優勢のころにインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したりしたアメリカ軍航空隊の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている66 。また、アメリカ軍が潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている67 。1940年代後半の独立時に制定された憲法 は、旧宗主国フランスのみならずアメリカ合衆国憲法 をも参考に作られており、1950年代にアメリカでレッド・パージ (マッカーシズム )が起こったころには、一時、自らの共産党 を法的に非合法組織としたことすらあった。
政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ 大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の枯葉剤 などについても、あえて「民間団体」に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っている。一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米 的な珍しい例である68 。2010年8月には国交復活15周年を記念し、空母ジョージ・ワシントン が中部ダナン市 を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却して未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
アメリカは、南ベトナムからは82万人もの難民を受け入れた。ベトナム系アメリカ人 が故郷に旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義の本土とは対立が根深く、政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
フランスとの関係 1887年(明治 20年)- 1945年(昭和 20年)。
1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦 が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナ に日本軍 が進駐した(仏印進駐 )。当時は、日本とドイツ が同盟 を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本はその隙を衝いて仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「大東亜共栄圏 」の建設を呼号し、明号作戦 の結果、カンボジアとラオスと同時期の1945年3月11日、ベトナム帝国 としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、阮朝 が王政復古 を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけて一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。日本のポツダム宣言 受諾表明に至る1945年8月14日から15日にかけて、インドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
日本との関係 戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟 (ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは保大帝 を退位させてベトナム八月革命 を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の帝国主義 国に過ぎないと見做されている72 。
第二次世界大戦 末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死 者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、国内ではこの200万人という数字は広く知られている(「ベトナム独立宣言 」参照)が、日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている(『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波現代文庫 、2005年)。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により「経済協力」の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。
第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、フランス軍 とベトナム民主共和国 軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争 )が始まった。ベトミン に残留日本兵 が多数参加し、独立に対して多大な貢献をした。当時、766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校 を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵が政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって日本へ帰国した150人以外は、なお留まり続けた模様である。
一方、ベトナム民主共和国 (北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の1973年7月より、フランスの首都パリ において国交交渉が開始される。同年9月21日には交換公文 が交わされ、大使級の外交関係が樹立された73 74 。また、国交樹立の合意に伴い「経済協力」の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。
現在,日越関係は「アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ」の下、政治、経済、安全保障、文化・人的交流など幅広い分野で緊密に連携している。日越間の交流の増加を受けて、1997年の在大阪 ベトナム総領事館開設に続き、2009年に在福岡 ベトナム総領事館、2010年に在釧路 ベトナム名誉領事館と在名古屋 ベトナム名誉領事館が開設された77 。
皇太子徳仁親王 (当時)は2008年(平成 20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し78 、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイ 、ダナン 、ホイアン 、ホーチミン市 と、各地を縦断して訪問し、明仁上皇 が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川 支流で新種のハゼ が見つかったことを明らかにした学術論文 をハノイ自然科学大学に寄贈した79 。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している80 。
査証 (ビザ)に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する口上書 を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている81 。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である82 。
日本の広報拠点として、2002年にJICA プロジェクトとしてベトナム日本人材協力センター (VJCC) が開設され、2008年に国際交流基金 のベトナム日本文化交流センター が開設された。
日本語教育 については、1943年(昭和 18年)にサイゴンで日本語 が教えられていたとの記録がある。2003年に国際交流基金の「ベトナム中等学校における日本語教育試行プロジェクト」が始まる。2021年時点で日本語学習者数は169,582人。2023年5月時点で、日本への留学生数は36,339人で、国別では第3位86 。
2016年9月9日、「日越大学 」が開校した、日本の政府と大学が協力する87 。
軍事 ベトナム人民軍 (Quân đội Nhân dân Việt Nam/軍隊人民越南)は独立前の1944年12月22日に建軍された。徴兵制度 を採用しており、18歳から27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵 の三結合方式による全国民国防体制を採用する。
国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権 を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会 であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。
中越戦争 時には総人口5000万人台に対して正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、現在では総人口約9000万人に対して48万4000人まで削減された。人員は陸軍 が41万2000人、海軍 が4万2000人、防空・空軍 が3万人である。このほか、予備役 と民兵が合わせて300万人~400万人いる。予備役将校 の職業は様々で、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドル である。
外国との軍事協力 インド とは2022年6月に、相互の軍事基地を補給・補修に使う、外国との初の協定を結んだ90 。以前からインド海軍 はベトナム人民海軍 将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請したこともある91 。
2014年には国際連合平和維持活動 に初参加した92 。また2022年12月上旬には国として初の大規模国際防衛展示会を開催し、米露など30カ国が参加した93 。
地理
概要 ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島 の太平洋 岸に平行して南北に伸びるアンナン山脈 (チュオンソン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、米かごを吊るす天秤棒 に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタ地帯 は紅河 (ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市 ハイフォンが位置する。南のデルタ地帯はメコン川 によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
デルタ地帯 5月から11月にかけて、インド洋 を渡ってやってくるモンスーン (季節風)が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川の至る所で堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタ や南部のメコンデルタ が、重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である94 。
平野 ベトナム北部には、紅河、マー川(タインホア省)やラム川(ゲアン・ハティン省)の下流域などに大きな平野が広がっている。紅河平原の面積は約15,000平方キロメートルで一面が水田であり、人口は6,500,000人(1931年時点)を擁し、そのほとんどは農民である95 。
気候 北回帰線 よりも南に位置し、赤道 近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーン の影響を強く受ける。7月から11月まで台風 の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。
南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候 〈Aw〉、ホーチミン市など一部地域は熱帯モンスーン気候 〈Am〉96 )97 。平均気温は1月が18℃、7月が33℃だが、平均降水量は1,000mmと少ない。
北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江 (メコン川)が広がる。
紅河デルタにあるフーリーでは、1980年から1995年の月別平均気温は、1月16℃、2月15℃、3月19℃、4月22℃、5月26℃、6月27℃、7月28℃、8月27.5℃、9月26℃、10月24℃、11月21℃、12月19℃である98 。
ハノイの気候(温帯夏雨気候)
ホーチミン市の気候(サバナ気候)
生物多様性 ベトナムでは15,986種の植物相が確認されており、その内の10%が固有の植物で占められている。動物相には、307種の線虫 類、200種の貧毛綱 、145種のダニ 類、7,750種の昆虫 (うち113種はトビムシ目 )、260種の爬虫類 、120種の両生類 が含まれている。また840種の鳥類 と310種の哺乳類 が生息しており、うち100種の鳥類と78種の哺乳類が広範囲に分布している。他は水生無脊椎動物 が794種、海水魚が2,458種を占めている。 淡水に生息する微細藻類も1,438種存在しており、全微細藻類の9.6%がベトナム国内での生息を確認されている。
環境 ベトナムでは、先述での戦争時において使用された枯葉剤などの化学物質による影響から、多くの問題を抱えている一面がある。
また、野生動物の密猟 が大きな懸念事項となっている。
2004年時点で生物多様性の保全に4,907万ドルを費やしており、30の国立公園を含む126の保全地域を設立している。現在は9つの生物圏保護区が設けられている。
地方区分
端 陸上の極地 (2) 海岸線の極地 (2) 海上の極地 (2)
地方行政区画 2025年1月の改正により、57省と、6の中央直轄城庯(市)となった。中央直轄城庯はハノイ (河内)、ホーチミン市 (胡志明)、ダナン (沱㶞)、ハイフォン (海防)、カントー (芹苴)、フエ (化)。国土最北に位置する省はハーザン省 (Hà Giang , 河楊)、国土最南に位置する省はカマウ省 (Cà Mau ) である。自治体独自の旗を禁止しているため自治体ごとの旗は存在しない99 。
主要都市
ハノイ (Thành phố Hà Nội、城庯河内)
ホーチミン市 (Thành phố Hồ Chí Minh、城庯胡志明)
1区 : 旧サイゴン (Sài Gòn)(柴棍)
5区 : 旧チョロン (Chợ Lớn)(𢄂𡘯)
クチ県 (Củ Chi): クチ(糾支)
ダナン (Thành phố Đà Nẵng、城庯沱㶞)
ハイフォン (Thành phố Hải Phòng、城庯海防)
カントー (Thành phố Cần Thơ、城庯芹苴)
ヴィン (Thành phố Vinh、城庯永)
フエ (Thành phố Huế、城庯化)
ホイアン (Thành phố Hội An、城庯會安)
ニャチャン (Thành phố Nha Trang、城庯芽莊)
ファンティエット (Thành phố Phan Thiết、城庯潘切)
ミトー (Thành phố Mỹ Tho、城庯美湫)
テイニン (Thành phố Tây Ninh、城庯西寧)
ヴィンロン (Thành phố Vĩnh Long、城庯永隆)
ダラット (Thành phố Đà Lạt、城庯多樂)
住所表記 欧米の多くと同様に、細かい分類から順に表記し、またストリート によって住所を表す。番地は、偶数が左車線側、奇数が右車線側のように分かれ、ストリート名のない細かい路地に入る場合は、7/40(40番地にある路地内の7番目)のように表記する。例として、ホーチミン市1区人民委員会 の住所を下記に記す。
Ủy ban nhân dân Quận 1 - 47, Đường Lê Duẩn, Phường Bến Nghé, Quận 1, Tp Hồ Chí Minh, Việt Nam
(1区人民委員会 - 47番地、レ・ズアン通り、ベンゲー坊、1区、ホーチミン市、ベトナム)
経済 ベトナム統計総局の統計によると、2023年のGDP (国内総生産)は約4,300億ドル 。一人当たりのGDPは4,285ドルである100 。
1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に市場経済 システムを取り入れるというドイモイ政策 を採択、中国の改革開放 と同様に市場経済路線へと転換した。1996年のベトナム共産党第8回大会では、2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。ドイモイ政策の導入以降、貧困率は大幅に改善され、1993年の58.1%から2015年には5%以下となった101 。
政府開発援助 と外国投資が経済を牽引している。2007年には政府にとって重要な目標となっていた世界貿易機関 (WTO)に加盟した。世界金融危機 で一時失速した国内総生産 (GDP) の成長率も、2010年代は平均して5~6%の安定成長が続いている。一方インフレ率は、2011年に18.7%と高い数値を記録したが、2017年には3.5%となった。中国では人件費 が上昇基調にあることから、新たな投資先として注目が集まっている。欧州連合 (EU)は新興国 で初のFTAを結ぶ相手にベトナムを選び102 103 、2020年8月1日に発効した104 。
NEXT11 やVISTA の一角にも数えられており、今後一層経済の発展が予想されている。1日1ドル以下で生活する貧困層の割合は中国、インド、フィリピンを下回る。
主な輸出品目は原油 、衣料品、農水産物。特にコメ については、インド、タイに次ぐ世界第3位の輸出国である109 。カシューナッツ と黒胡椒 の生産は世界の1/3を占め1位。コメのほかコーヒー 、茶 、ゴム 、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。
安い人件費、ODAを活用したインフラ整備を背景に外国資本の受け入れでASEANで高い経済成長を続けている110 。
社会主義国として経済の根幹をなしてきた国有企業とは別に、民間企業が台頭している。不動産 会社として2001年に起業 した後に小売業 、製薬 、学校 ・病院 経営、農業・飼料 からベトナム初の自動車 生産にまで進出したビングループ 、ベトジェット を傘下に持つソビコ・ホールディングス、不動産業のFLC、BRGなどが財閥 を形成しつつある。これらを含めた大手企業の経営者は10大富豪と呼ばれる。旧ソ連 への留学組が創業・経営し、政治家や政府高官との人脈を利用して事業を成長させてきた例が多いと指摘されている111 112 。
2010年8月4日、ベトナム公安省は、乱脈経営で国営ベトナム造船グループ(ビナシン )を経営危機に陥れたとして、同グループの前会長を背任に当たるとして逮捕した。前会長は親族を重要ポストに登用するなど私利を図っていた疑いがもたれている。
2011年11月8日、2011-2015年の社会経済発展計画を政府が提案し、国会で承認された。国内総生産年平均6.5-7%の成長率を目指し、公共投資や国営企業の改善を通じた経済構造の再編を図るものである。
投資 2023年にベトナム政府が認可した海外から同国への直接投資額は下記の通りである(出典:ジェトロハノイ事務所)。
農業 コーヒーは、現在ではブラジル に次いで世界第二位の生産量(162万トン、113 2023年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料 、製菓用途で使われる安価なロブスタ種 (カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種 の栽培も始まっている。また、現地では基本的に植民地 支配を受けたフランス の手法を取り入れた飲み方にてベトナムコーヒー が飲まれる。
鉱業 石炭 や南シナ海 で採掘される石油 を中心とした有機鉱物資源、スズ を中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。石炭技術で釧路コールマイン との繋がりが太く、北海道釧路市 に名誉領事館を設置している。2003年時点の採掘量は1,670万トン。原油 は1,660万トンのを産出する産油国 でもあり、天然ガス の採取量は126千兆ジュール となっている。
金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。最も重要なのが世界第4位のスズ (4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。亜鉛 、金 、クロム 、鉄 、鉛 のほか、リン鉱石 を産出する。
エネルギー ベトナムの電力の大部分は、石炭 、石油 、ガス などの火力発電 または化石燃料 発電によって生産されており、その他にはディーゼル 、小さな水力発電所での水力発電 、再生可能エネルギーを用いた発電が挙げられる。これらが現在も国の電気を供給している。
観光産業
交通 ベトナムの都市部ではバイクが主な移動手段として広く利用されている。自動車の利用も増加しているが、交通渋滞が深刻な問題となっている。公共交通機関としては、バスが主要な手段であり、ハノイとホーチミン市では都市鉄道(メトロ)の建設が進められている。国内の長距離移動には鉄道や国内線航空が利用される。
道路
鉄道
空港
科学技術 ベトナムの科学技術に対する国家支出は、2010年時点でGDPの約0.45%に達している。
国民 ベトナム社会主義共和国憲法 第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家 であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書 を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族 籍を記入する欄が設けられている114 。
人口 ベトナムの総人口は、2022年現在で9,832万人となっている。1988年以降「2人っ子政策」をとってきたが、2017年を以って廃止された115 。
民族構成
言語
文字 ベトナムにおける漢字 。上記のチュ・クオック・グーが公用文字となるまで、ベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としてはもっぱら漢文 (古中国語)が用いられた。チュ・クオック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。北ベトナム では1950年の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、1954年には漢字の公的な使用を全廃、南ベトナム では1975年の崩壊まで中等教育 での漢文科が存続していた。2014年現在では、僧侶 か日本語 や中国語 の学習者しか読めなくなっている。
ベトナム語を表記するために13世紀に発明された合成漢字。固有語の表記に用いられ、漢字と混ぜ書きされた。
など、複数の造字法があり複雑で、一時期を除いて公用文字に採用されることはなかったが、民族意識の高まりを背景に民間では有識者層を中心に普及し、18世紀から19世紀には多くのチュノム文学 が生まれた。20世紀になると、漢字の画数が複雑過ぎる事で、初等教育 に支障を来す事や、チュ・クオック・グーの普及により、急速に衰退の道を辿った。
人名 主要民族であるキン族 を中心に、人名の多くは、漢字文化圏 に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓 と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓 となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(tên đệm、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字 、朝鮮 の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。
名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語 による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムを持つものがある。
宗教 それぞれの公認教団の信徒数は、2008年の資料で仏教1,000万人、カトリック550万人、カオダイ教240万人、ホアハオ教160万人、プロテスタント100万人、イスラム教6万5千人となっている118 。公認教団の一例としてはベトナム仏教僧伽 がある。
憲法では、信教の自由 を人民に保障しているが、同時に信仰に制限があることも法律に明記している。過去には2001年、2004年に、ベトナム政府に土地を奪われた山岳民族による暴動が元で、プロテスタントの弾圧が起きた。また、政府非公認教団である「統一ベトナム仏教教会」が弾圧に抗議して1992年に騒擾事件を起こす事件も発生している。2014年現在でも、非公認プロテスタント教団の活動は第三級行政区レベル(坊、社、市鎮)に留められており、より上位の行政区では活動ができないなどの各種制限が存在する118 。
また、ベトナム共産党 員はホー・チ・ミン 元国家主席 のみを信仰する傾向がある。無論ホー・チ・ミン信仰は「宗教ではない」が、それに匹敵する影響力を有する(ホー・チ・ミン自身は、自らが個人崇拝 の対象になることを、徹底的に嫌っていた程であった)。
教育 成人識字率 は、95.8%(2019年、米CIAによる)119 。学校で勉強する必修の第一外国語は英語が一般的である。英語以外にはロシア語、フランス語、中国語、日本語、韓国語、ドイツ語がある120 。
6歳から始まり、小学校5年間、義務教育、学費は原則無料。
基礎中学校(前期中等教育、日本での中学校に相当)4年間、普通中学校(後期中等教育、日本での高等学校に相当)3年間。
ベトナムの大学 には国家大学(首相直轄校)、国立大学(地方総合大学、専門大学:教育訓練省 、厚生省、文科情報省、人民委員会などの所轄)、民立大学がある。
教育行政 教育行政は、中央に教育訓練省、地方の省レベル121 に教育訓練局、県レベルに教育課がある。学校段階別の管轄関係は基本的には次のようになっている。高等教育は教育訓練省、普通中学は教育訓練局、基礎中学・小学校・幼稚園・保育園は教育課。これら教育行政機関の職員は「教育管理幹部」と呼ばれ、教育経験者。教員の資格要件は、幼児教育と初等教育で中等師範学校卒、前期中等は師範短期大学卒、後期中等教育は大学卒となっている122 。
保健
衛生環境 ベトナムには豊富な地表水と地下水資源が存在するが衛生設備が整っていない状態が今も続く為、乾季には局地的な水不足が発生する問題点を抱えている。
医療
治安 ベトナムは近隣国のタイ やミャンマー 、フィリピン に比べてば治安が安定していると言われていたが、近年の経済発展による貧富の格差拡大や地方貧困層の都市部への流入などに伴い、治安状況が悪化して行く傾向が見受けられる。現在、殺人 や強盗 などの凶悪犯罪の発生は少ないものの、外国人 住居 への忍び込み、繁華街 周辺でのひったくり 、スリ や置き引き などの窃盗 事件が発生しており、特に日本人旅行者は空港や市場 、路上 、ホテル 、レストラン などで旅券 や現金 などの貴重品の盗難 被害に遭うケースが頻繁に報告されている実状がある為、身の安全の確保の為にも不要な散策などは安易に行わない姿勢が求められる。
また同国治安当局は、これまで国内にテロ 組織や反政府組織は存在しないとしていたが、国外においては2016年に在外反政府組織「ベトタン」をテロ組織として扱うとの報道がなされており、当局がベトナム人海外移住者(越僑)を主体とする反政府活動家の活動に対して警戒を強めている現状がある。
なお、政府の土地収用をめぐって国内の至る所で争議が頻発しており、2020年1月にはハノイ市近郊において警察官3名が死亡する大規模な騒擾事件が発生するなど、政府に対する抗議活動が行われている123 。
法執行機関
人権
人権問題 アムネスティ・インターナショナルは、Facebook、Googleがサービスを提供しているが、政府の検閲に協力しているとしている125 。
LGBTの権利 主に南部では、タイ やカンボジア と同様に、トランスジェンダー 文化の伝統があるが、主に儒教 の影響から同性結婚 は長らく認められず、2002年に国営メディアでは同性愛 を売春や賭博、違法薬物などと並ぶ「社会悪 」であるとの認識を表明し、同性愛の規制や同性愛カップルの逮捕を行える法整備を確約した126 。しかし世論の高まりとともに、2009年に初の女性への性別変更と改名が認められる判例が生まれた。2013年には同性愛の禁止と罰金制度が法律から削除され127 、また同性カップルの同居に対して、正式な結婚には劣るが、ある程度の権利が認められた。しかし後にこの権利条項は削除されている128 129 。2025年3月時点、同性愛は禁止こそされてはいないが、法律婚など法的な権利が認められているわけでもない。
マスコミ
新聞と雑誌 前述の通りこれらは全て政権党関係の機関紙であるが、『トゥオイチェー』紙は比較的革新的な編集方針を採っており、タブー視されているホー・チ・ミンの過去の経歴を掘り下げる報道や134 、近ごろの若者はホー・チ・ミンよりビル・ゲイツ に憧れているなどの報道を行い、当局と度々衝突を起こしている135 136 。
報道規制
通信
インターネット
文化
食文化 飲酒 量が多く、世界保健機関 (WHO)が2018年に発表した調査結果によると、ベトナム人が1年間に摂取するアルコール 量は8.3リットル と、世界平均(6.4リットル)を上回る。特にビール が好まれ、企業別生産量シェアは、タイ企業傘下のサイゴンビール・アルコール飲料総公社(サベコ)43%、ハイネケン 25%、ハノイビール・アルコール飲料総公社(ハベコ)15%、カールスバーグ 8%の順である。日本のサッポロビール ホールディングスが2011年に進出して高級ブランドとして定着しているほか、日本円 換算で1杯数十円程度の樽詰め生ビール「ビア・ホイ 」が各所の大衆食堂で売られている。ベトナム政府は、国民の健康維持や飲酒運転 防止のため広告などの酒類規制を進めており、2019年6月にはベトナム国会常任委員会がアルコール被害防止法案を採択した141 。
文学
哲学
音楽
美術
芸能
映画
衣装
建築 ベトナムの建築は古代中国の文化から影響を受けている面が多く、呉朝以前から仏教建築 の影響の濃さが窺える。
近代における建築はフランス植民地時代に西洋文化の影響を強く受けている為、その点から建材にセメント が広く使われるようになり、ハノイ歌劇場 を始めとしたコンクリート 建築の建物が戦後から設けられている。
世界遺産
歴史文化遺産 1945年の独立後、ホーチミン主席令が出され、東洋博古学院が古跡保護の責任を持つようになった。現在は歴史文化遺跡指定制度を文化・情報省が行っており、現在の総指定件数約2800件のうち、約2000件は寺、ディン(亭、村の守護神が祀られている)、廟、デン(神社)が占めている。歴史文化遺産を代表するものにはヤックラム・パゴダ などがある。
1957年、遺跡保護に関する議定を制定し、1962年に初めて「歴史文化遺跡」が指定された。対象は不動産中心で、革命や抗仏戦史に関する史跡、考古学的遺跡、建築、景勝地などが指定された144 。
祝祭日
スポーツ さらに東南アジアサッカー選手権 では2度の優勝を誇り、代表チームが試合で勝利を収めると街にはベトナム国旗を持った人々が溢れ、国中が大変な盛り上がりをみせる。国内で人気の選手には「ベトナムの英雄」と呼ばれる**レ・コン・ビン **が存在する。同国代表の最多出場・最多得点者であり、2009年にはベトナム人 として初めてポルトガル1部 に移籍している。また、2013年にはコンサドーレ札幌 にも所属していた。
著名な出身者
参考文献
脚注
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