鮑信
鮑 信は、中国後漢末期の武将。兗州泰山郡東平陽県の人であるが祖籍は并州上党郡屯留県である。前漢の司隷校尉の鮑宣の八世の孫。父は鮑丹。弟は鮑韜。子は鮑卲・鮑勛。『後漢書』や『三国志』などにその名が散見される。
生誕~死没 152年 ~ 192年最終更新 2026/10/16 14:48
鮑 信(ほう しん、元嘉2年(152年) - 初平3年(192年))は、中国後漢末期の武将。兗州泰山郡東平陽県の人であるが祖籍は并州上党郡屯留県である。前漢の司隷校尉の鮑宣の八世の孫。父は鮑丹。弟は鮑韜。子は鮑卲・鮑勛。『後漢書』や『三国志』などにその名が散見される。
生涯
寛大で節義を弁え、智謀に秀でていたといわれている。代々儒学で名を成した家系の出身で、常に質素な生活をしていたこともあったため、多くの人から慕われていた(『後漢書』袁紹伝の引く『魏書』)。
霊帝の時代、何進の招聘を受け騎都尉となった。十常侍と対決することを決意した何進の命令で、同郷の王匡と共に故郷に戻り兵を募ったという(『後漢書』)。しかし成皋の地に辿り着いたところで、何進が暗殺されたことを知った(鮑勛伝の引く『魏書』)。
鮑信が兵を連れて戻ると、何進と十常侍が共に滅んでおり、董卓が軍勢を率いて都に入っていた。鮑信が董卓の専横を予見し、袁紹に董卓を襲撃するよう進言したが、袁紹は実行しなかった。そこで鮑信は郷里に帰り、二万の歩兵・七百の騎兵・輜重五千余りを集めた(鮑勛伝の引く『魏書』董卓伝)。董卓討伐の同盟(反董卓連合軍)が結成された時、鮑信は済北国の相となっていたが(『後漢書』・武帝紀1)、討伐軍に参加し、袁紹を盟主として関東の諸侯と盟約を結んだ(『後漢書』・武帝紀)。鮑信は袁紹と曹操から行破虜将軍に推挙・上表された(鮑勛伝の引く『魏書』)。
鮑信は劉岱・張邈・・・と共に酸棗に駐屯した。酒宴ばかりで戦をしようとしない諸侯に対し、曹操は戦をするよう訴えた(武帝紀)。鮑信は曹操の求めに応じ共に戦ったが、董卓の派遣したに大敗、弟が戦死し自身も重傷を負った(鮑勛伝の引く『魏書』)。まもなく兵糧が尽きて酸棗の軍勢が解散したため、鮑信も任地に帰還した(「後漢書』)。
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