高宗 (唐)
高宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子で、諱は治。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である。
生誕~死没 628年7月21日 ~ 683年12月27日最終更新 2026/10/16 14:53
基本情報
- 生誕 ~ 死没
- 628年7月21日 ~ 683年12月27日
- 王朝
- 唐
- 都城
- 長安
- 姓・諱
- 李治
- 字
- 為善
- 小字
- 稚奴
- 諡号
- 天皇大聖大弘孝皇帝
- 廟号
- 高宗
- 父
- 太宗(第9子)
- 陵墓
- 乾陵
- 年号
- 永徽 : 650年 - 655年, 顕慶 : 656年 - 661年, 龍朔 : 661年 - 663年, 麟徳 : 664年 - 665年, 乾封 : 666年 - 668年, 総章 : 668年 - 670年, 咸亨 : 670年 - 674年, 上元 : 674年 - 676年, 儀鳳 : 676年 - 679年, 調露 : 679年 - 680年, 永隆 : 680年 - 681年, 開耀 : 681年 - 682年, 永淳 : 682年 - 683年, 弘道 : 683年
- 位置
- 34.2611, 108.9422
高宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子で、諱は治。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である1。
生涯
父太宗の晩年にあたる貞観17年(643年)、皇太子であった李承乾は、父の寵愛の篤い魏王李泰をねたみ、武力を以て除こうとして失敗した。承乾は皇太子を廃され、泰も排斥された。承乾と泰の母である長孫皇后の兄の長孫無忌の進言もあり、やはり長孫皇后の子である第9子の李治が代わって皇太子に立てられ、太宗の死にともない皇帝に即位した。太宗に溺愛された異母兄の呉王李恪(隋の煬帝の外孫でもあった)を擁立する動きが見られたため、長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑をかけて自殺に追い込み、一族を処刑した。
永徽5年(654年)、高宗が万年宮に行幸したとき、洪水が起こって夜間に大水が玄武門を襲い、宿衛たちはみな逃げ散った。一方、薛仁貴は怒って、「天子の危急のときに、どうして死を恐れようか?」と言って門に登って大声で叫び、宮中に警告したため、高宗は危機を逃れた。水が高宗の寝所にまで侵入していたため、高宗は仁貴を忠臣と讃えた。
龍朔3年(663年)、白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍に勝利する。乾封元年(666年)、泰山にて新羅王や倭王他を従え封禅を行う。総章元年(668年)、新羅と共同(唐・新羅の同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる()。こうしてのほとんどを版図に収め、を設置、唐の最大版図を獲得した。しかし、新羅が唐との同盟を破棄し、3年(676年)に朝鮮半島全土を統一を達成()したため、ついに朝鮮半島経営を放棄した。
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