馬謖
馬 謖は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。字は幼常。荊州襄陽郡宜城県の出身。兄は馬良(四男)、ほか三名(実名不詳)。襄陽の名家であった「馬氏五常」の五男(末子)。
生誕~死没 190年 ~ 228年最終更新 2026/10/16 14:47
馬 謖(ば しょく、190年 - 228年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。字は幼常。荊州襄陽郡宜城県の出身。兄は馬良(四男)、ほか三名(実名不詳)。襄陽の名家であった「馬氏五常」の五男(末子)。
生涯
劉備が荊州を支配するようになると、兄の馬良と共に従事に取り立てられた1。
劉備の入蜀に随行し、益州平定後は綿竹・成都の県令・越巂太守を歴任した1。
並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。ただ劉備は彼を信用せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は頭はいいが実行力がないため軍隊の指揮は任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したという。しかしながら「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と、俊英な馬謖の才能を愛した諸葛亮は2、劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った3。
建興2年(224年)春、建寧郡の豪族の雍闓らは西南夷の有力者の孟獲を誘って蜀に謀反を起こした。諸葛亮が馬謖に「数年に渡って共に謀を考えてきたが、今再び良計を授けてくれ給え」と言うと、馬謖はこれに答えて「南中はその遠方かつ険阻な事を恃みとして久しく服従しませんでした。今日これを撃ち破っても明日にはまた反逆するだけでしょう。今、公 (諸葛亮)は国家の力を傾けて北伐を行い、以って強力な賊にあたられるおつもりです。官軍の勢力減少を彼らが知れば、反逆もまた速いでしょう。もし反乱兵だけでなく、残った者まで尽く滅ぼし、以って後の禍を除こうとすれば、それは仁徳の情に外れる上に、急に成す事も出来ません。そもそも用兵の道は、心を攻める事を上策とし、城を攻める事を下策とします。また心を屈する戦いを上策とし、兵を以って戦う事を下策とします。公は寛容さを以ってその心を帰服させられます様に」と述べ、諸葛亮もこの言葉を全面的に受け入れたため、これがなどの作戦に繋がり、の成功と蜀のの安定に寄与する事になった。
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