西暦 — OpenHistory
A.D.
AD
共通紀元
Common Era
CE
共通紀元前
Before Common Era
BCE
歴史
誕生 聖書 の記述によると、イエスが復活 した日はユダヤ教 の過越 の祭り(春分 の頃の最初の満月の日)の前日から3日目の日曜日 (主日 )であり、伝承では「ユダヤ暦 でニサンの月の14日」(ユリウス暦 の3月25日)とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した10 。そこで、ここから過越の祭りと同日である復活祭 の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた10 。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた10 。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した9 。また、紀元の始点を(イエス生誕を祝うクリスマス の12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた10 。
割礼日 イエス・キリスト の割礼 日を紀元1年1月1日とする紀年法は、割礼年初と称される。佐藤幸治は自著の中で以下のように説明している。
イエスはユダヤ人として生まれたので、ユダヤの風習で八日目に神との契約である割礼を受けた。 この重要な儀式がイエスの誕生の12月25日の八日後に行われ、それを機に新しい年が始まるというものである。12月25日の八日後であるから、当時の数え方に従えば、現在の1月1日である。 — 佐藤幸治、『文化としての暦』1998年、創元社、「西洋の年初」p.69
また、ザ・ガーディアン は、紀元1年1月1日から毎年1月1日には、イエス・キリストの割礼日を祝ってきたということを説明している11 4 。
なお、12月25日のクリスマス は、あくまでもイエスが降誕したことを祝う日であり、誕生日というわけではない。イエスの誕生日は聖書に記述がなく、不明である。
受容 西暦1年から524年までは概念上の存在であり、同時代に紀年法 として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士 ベーダ・ヴェネラビリス が『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、キリスト教会のなかで広く使われ始めたのは10世紀以降であり、一般の人が使い始めたのはヨーロッパでも16世紀に入ってからである12 。
西暦が国際社会全体で、最も用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地 拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。
正教圏
西暦元年とイエス生年のずれ ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。現在では、イエスはヘロデ大王 の治世の末期、紀元前4年ごろに生まれたと考えられている。これは、新約聖書 の2つの記述が根拠となっている。
※この人口調査は紀元前4年に行われたとされている。
救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ2歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した。 — マタイによる福音書 、第2章
これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年という説が有力視されているため、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている。
紀元前 西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。例えばカエサル が暗殺された年は紀元前44年である。この記法は17世紀のフランスイエズス会 の神学者ディオニシウス・ペタヴィウス (Dionysius Petavius) (1583–1652)(別名ドニ・プト13 (en:Denis Pétau ) )の発案によるものであり、18世紀末になってようやく一般化した。
日本では、通常「紀元前××××年」と言う。日本での欧文表記は、英語 の“Before Christ”の略であるB.C.または BC である。
0と負の西暦 この場合、西暦1年は「1年」、紀元前1年は「0年」、紀元前2年は「−1年」、紀元前3年は「−2年」・・・と表記される。例えば紀元前44年(カエサル が暗殺された年)は、西暦−43年である。この拡張された西暦は、日付と時刻の表記を規定する国際規格であるISO 8601 でも採用されている。ISO 8601 においては、年の表記は 0001 が西暦1年を表し、0000 は紀元前1年、−0001 は紀元前2年、−0002 は紀元前3年である(ただし、事前に通信の送信側と受信側との間での合意が必要である)。
表記 日本 では西暦年での表記が増えており、「2025年」あるいは下2桁のみで「25年」または数字の前にアポストロフィ (')を付して「'25年」と表記する事が多い14 。元号 と区別するためには、「西暦2025年」と、「西暦」を年の前に付ける。ただし「西暦+下2桁」(例えば、西暦25年)とは書かない (詳細は後節の「#西暦と各国の紀年法の関係 」を参照 )。また、百年紀 を跨ぐ複数の年を表す場合には略さずに4桁(または3桁)で表記される。
キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、大日本帝国 では神武天皇即位紀元 (皇紀)を指していた。
英語 では、2025または25と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD 2025" と書く。紀元前ならば "123 BC" と書く。
英語のADは、ラテン語 の Anno Domini(主 〈イエス・キリスト〉の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない15 。たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味するAprès Jésus-Christ / Avant Jésus-Christ(を略したもの)を使う。
中立的な表現 キリスト教に基づく表現であるAnno Domini(AD)、Before Christ(BC)を、より中立的に、たとえば英語ではCommon Era (共通紀元)、 Before Common Era(共通紀元前)とする動きが起きている。
もともと18世紀ごろからユダヤ教徒の間で、Common EraやVE (Vulgar Era) を使う動きがあった。背景には、19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダード になって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。
2002年に、イングランドとウェールズの公立学校が、CE、BCE を導入した16 。『ワールド・アルマナック 』2007年度版なども追随し、出版業界でも切り替えの動きが広がっている。また、アメリカの大学入試テストなどを運営する非営利団体のカレッジボード なども導入している17 。
たとえば、Unicode Standard ではceとbceを使っている。
西暦と各国の紀年法の関係
日本 日本には、16世紀にカトリック教会 の宣教師によって西暦がもたらされた。しかし、江戸時代 になって禁教令 が出されると、西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、使用が禁じられた。実際、1641年における、平戸 のオランダ商館 の出島 への移転は、西暦が使われたことを、長崎奉行 が問題視したために実行された。
気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)18 に定められた気象機器の検定証印の年表示(第13条)や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示、日本国旅券 の名義人の生年、運転免許証 や個人番号カード の有効期限のように、一部の例外として西暦を使用する法令も存在する。また外交青書 は、西暦主体の表記となっている。
今日の日常生活では、「2000年(平成 12年)」のように元号と併記する場合がある。NHK を除く主要なマスメディア (新聞 ・テレビ など)の多くは、主に西暦を使用しており、法令番号 や判例 など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している(その他日本国内における元号との使い分け事例などについては「元号#元号使用の現状 」を参照 )。
西暦と同様の紀年法として、日本には神武天皇即位紀元 (皇紀、神武紀元)が存在する。明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀も用いられた。現在でも法令として有効である閏年 の置き方に関する勅令 (閏年ニ関スル件 19 、明治31年5月11日勅令第90号)では、閏年の判定を西暦ではなく、神武天皇即位紀元によって行うことが定められた。西暦は法制化されていないため、長期紀年法としては、神武天皇即位紀元が、今でも法制上かつ暦法上の唯一のものであるが、戦後は一般には用いられていない20 。
西暦に対して、元号を用いた日本独自の紀年法のことを**和暦 、あるいは 邦暦**、日本暦 と呼ぶことがある21 。
「西紀」の語 この方式の紀年法の日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、幕末から昭和時代にかけては「西洋紀元」を省略して「西紀」と言う表記も行われていた。本来なら西暦より西紀のほうがふさわしく、西暦と訳すのに適切なのは(西暦は「西洋の暦」の意であるから)グレゴリオ暦 のはずである22 。実際、村田文夫 の『西洋聞見録 後編』(1871年)では、「西暦」は西洋の暦法 であるグレゴリオ暦(あるいはユリウス暦 )を指している。まれに「キリスト紀元」(「基督紀元」)の表記も見られる。
中国 中華民国 では、辛亥革命 勃発(1911年)の翌年に当たる1912年に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする民国紀元 (中華民国暦)を採用した。中華民国では宣統 の次の元号のように「民国 」という表記で扱われている。中華民国が台湾 に逃れた1949年10月以降も、政府機関が公的な場で使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。
1949年10月1日に成立した中華人民共和国 では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので、西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。
朝鮮半島 韓国では朝鮮神話 における最初の王朝、檀君朝鮮 の初代王である檀君 の即位年とされる紀元前2333年を紀元とした檀君紀元 23 が提唱され、建国直後の西暦1948年(檀君紀元4281年)から1961年(同4294年)までは公文書に記載されていたが24 、1962年1月1日からは廃止された25 。ただし、その後も檀君紀元は民間の中で使用が続けられている26 。
北朝鮮では西暦1948年の建国から西暦のみが使われてきたが、1997年9月9日から主体年号 の使用が告知され、公式行事や同国の報道機関27 で使用されるようになった。これは同国の初代かつ唯一の国家主席 である金日成 の生誕年である西暦1912年を紀元としたもので28 、結果として民国紀元(中華民国暦)と同年となる。日本語で表記する場合には「主体□□年」、ないし朝鮮語の発音をカタカナにした「チュチェ□□年」となる29 。
東南アジア・南アジア地域 東南アジア・南アジア地域のうち、仏教 、特に上座部仏教 の信徒が多数を占めているタイ ・カンボジア ・ラオス ・ミャンマー ・スリランカ などでは、仏教の開祖である釈迦 の入滅 (死去)した年を基準とする仏滅紀元 (仏暦)が普及している。なお、ミャンマーとスリランカでは釈迦の入滅年とされる紀元前544年を紀元元年、タイ・カンボジア・ラオスではその翌年である紀元前543年を紀元元年とし、1年のずれが生じている。
特に王室 が仏教を厚く保護するタイ王国ではこの仏暦が公式文書で使われている。この場合、タイ語では仏滅紀元、西暦が普及している国で広く使われる英語や日本語では西暦で表記される例がある30 。また、西暦1940年(仏滅紀元2483年)に仏暦が9月で打ち切られて元日が揃えられ、「西暦y年m月d日=仏滅紀元y+543年m月d日」の計算式が成立したが31 、一部では整理前の年号が使用されているともいわれる(詳細は「仏滅紀元 」も参照 )。
参考文献
脚注
中国
西暦 (せいれき)とは、キリスト教 で救世主と見なされるイエス・キリスト が生まれたとされる年を元年(紀元 )とする紀年法 1 2 、またはイエス・キリストがユダヤ人 として割礼 を受けたとされる日を紀元1年1月1日とする紀年法3 4 である。西暦紀元 、キリスト紀元 ともいう。のちに西暦元年とイエスの実際の生年には「ずれ」があることが判明した(詳細は#西暦元年とイエス生年のずれ を参照。)ため、他のできごとを西暦の定義に採用しなければならなくなった。
現在は、パリ におけるメートル条約 の調印年月日を1875年5月20日 とする定義(詳細はISO 8601 を参照。)やユリウス暦 5 における1582年10月5日を1582年10月15日 とする定義6 など、さまざまな定義が考案されているが、本質的にはすべて同じものである。
西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601 や天文学的紀年法 においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は#0と負の西暦 を参照。)。
西暦は西ヨーロッパ のキリスト教地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民 活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。ラテン文字 表記は 各国で異なるが、 や では、 の「 」または「 」が使われる。これは「 」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味である。しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADの代わりに ( 、略称: )という名称を、 (BC)の代わりに ( 、略称: )という名称を使おうとする動きが広まっている(詳細は を参照。)。
A.D.
AD
共通紀元
Common Era
CE
共通紀元前
Before Common Era
BCE
歴史
誕生 聖書 の記述によると、イエスが復活 した日はユダヤ教 の過越 の祭り(春分 の頃の最初の満月の日)の前日から3日目の日曜日 (主日 )であり、伝承では「ユダヤ暦 でニサンの月の14日」(ユリウス暦 の3月25日)とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した10 。そこで、ここから過越の祭りと同日である復活祭 の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた10 。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた10 。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した9 。また、紀元の始点を(イエス生誕を祝うクリスマス の12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた10 。
割礼日 イエス・キリスト の割礼 日を紀元1年1月1日とする紀年法は、割礼年初と称される。佐藤幸治は自著の中で以下のように説明している。
イエスはユダヤ人として生まれたので、ユダヤの風習で八日目に神との契約である割礼を受けた。 この重要な儀式がイエスの誕生の12月25日の八日後に行われ、それを機に新しい年が始まるというものである。12月25日の八日後であるから、当時の数え方に従えば、現在の1月1日である。 — 佐藤幸治、『文化としての暦』1998年、創元社、「西洋の年初」p.69
また、ザ・ガーディアン は、紀元1年1月1日から毎年1月1日には、イエス・キリストの割礼日を祝ってきたということを説明している11 4 。
なお、12月25日のクリスマス は、あくまでもイエスが降誕したことを祝う日であり、誕生日というわけではない。イエスの誕生日は聖書に記述がなく、不明である。
受容 西暦1年から524年までは概念上の存在であり、同時代に紀年法 として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士 ベーダ・ヴェネラビリス が『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、キリスト教会のなかで広く使われ始めたのは10世紀以降であり、一般の人が使い始めたのはヨーロッパでも16世紀に入ってからである12 。
西暦が国際社会全体で、最も用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地 拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。
正教圏
西暦元年とイエス生年のずれ ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。現在では、イエスはヘロデ大王 の治世の末期、紀元前4年ごろに生まれたと考えられている。これは、新約聖書 の2つの記述が根拠となっている。
※この人口調査は紀元前4年に行われたとされている。
救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ2歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した。 — マタイによる福音書 、第2章
これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年という説が有力視されているため、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている。
紀元前 西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。例えばカエサル が暗殺された年は紀元前44年である。この記法は17世紀のフランスイエズス会 の神学者ディオニシウス・ペタヴィウス (Dionysius Petavius) (1583–1652)(別名ドニ・プト13 (en:Denis Pétau ) )の発案によるものであり、18世紀末になってようやく一般化した。
日本では、通常「紀元前××××年」と言う。日本での欧文表記は、英語 の“Before Christ”の略であるB.C.または BC である。
0と負の西暦 この場合、西暦1年は「1年」、紀元前1年は「0年」、紀元前2年は「−1年」、紀元前3年は「−2年」・・・と表記される。例えば紀元前44年(カエサル が暗殺された年)は、西暦−43年である。この拡張された西暦は、日付と時刻の表記を規定する国際規格であるISO 8601 でも採用されている。ISO 8601 においては、年の表記は 0001 が西暦1年を表し、0000 は紀元前1年、−0001 は紀元前2年、−0002 は紀元前3年である(ただし、事前に通信の送信側と受信側との間での合意が必要である)。
表記 日本 では西暦年での表記が増えており、「2025年」あるいは下2桁のみで「25年」または数字の前にアポストロフィ (')を付して「'25年」と表記する事が多い14 。元号 と区別するためには、「西暦2025年」と、「西暦」を年の前に付ける。ただし「西暦+下2桁」(例えば、西暦25年)とは書かない (詳細は後節の「#西暦と各国の紀年法の関係 」を参照 )。また、百年紀 を跨ぐ複数の年を表す場合には略さずに4桁(または3桁)で表記される。
キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、大日本帝国 では神武天皇即位紀元 (皇紀)を指していた。
英語 では、2025または25と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD 2025" と書く。紀元前ならば "123 BC" と書く。
英語のADは、ラテン語 の Anno Domini(主 〈イエス・キリスト〉の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない15 。たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味するAprès Jésus-Christ / Avant Jésus-Christ(を略したもの)を使う。
中立的な表現 キリスト教に基づく表現であるAnno Domini(AD)、Before Christ(BC)を、より中立的に、たとえば英語ではCommon Era (共通紀元)、 Before Common Era(共通紀元前)とする動きが起きている。
もともと18世紀ごろからユダヤ教徒の間で、Common EraやVE (Vulgar Era) を使う動きがあった。背景には、19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダード になって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。
2002年に、イングランドとウェールズの公立学校が、CE、BCE を導入した16 。『ワールド・アルマナック 』2007年度版なども追随し、出版業界でも切り替えの動きが広がっている。また、アメリカの大学入試テストなどを運営する非営利団体のカレッジボード なども導入している17 。
たとえば、Unicode Standard ではceとbceを使っている。
西暦と各国の紀年法の関係
日本 日本には、16世紀にカトリック教会 の宣教師によって西暦がもたらされた。しかし、江戸時代 になって禁教令 が出されると、西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、使用が禁じられた。実際、1641年における、平戸 のオランダ商館 の出島 への移転は、西暦が使われたことを、長崎奉行 が問題視したために実行された。
気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)18 に定められた気象機器の検定証印の年表示(第13条)や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示、日本国旅券 の名義人の生年、運転免許証 や個人番号カード の有効期限のように、一部の例外として西暦を使用する法令も存在する。また外交青書 は、西暦主体の表記となっている。
今日の日常生活では、「2000年(平成 12年)」のように元号と併記する場合がある。NHK を除く主要なマスメディア (新聞 ・テレビ など)の多くは、主に西暦を使用しており、法令番号 や判例 など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している(その他日本国内における元号との使い分け事例などについては「元号#元号使用の現状 」を参照 )。
西暦と同様の紀年法として、日本には神武天皇即位紀元 (皇紀、神武紀元)が存在する。明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀も用いられた。現在でも法令として有効である閏年 の置き方に関する勅令 (閏年ニ関スル件 19 、明治31年5月11日勅令第90号)では、閏年の判定を西暦ではなく、神武天皇即位紀元によって行うことが定められた。西暦は法制化されていないため、長期紀年法としては、神武天皇即位紀元が、今でも法制上かつ暦法上の唯一のものであるが、戦後は一般には用いられていない20 。
西暦に対して、元号を用いた日本独自の紀年法のことを**和暦 、あるいは 邦暦**、日本暦 と呼ぶことがある21 。
「西紀」の語 この方式の紀年法の日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、幕末から昭和時代にかけては「西洋紀元」を省略して「西紀」と言う表記も行われていた。本来なら西暦より西紀のほうがふさわしく、西暦と訳すのに適切なのは(西暦は「西洋の暦」の意であるから)グレゴリオ暦 のはずである22 。実際、村田文夫 の『西洋聞見録 後編』(1871年)では、「西暦」は西洋の暦法 であるグレゴリオ暦(あるいはユリウス暦 )を指している。まれに「キリスト紀元」(「基督紀元」)の表記も見られる。
中国 中華民国 では、辛亥革命 勃発(1911年)の翌年に当たる1912年に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする民国紀元 (中華民国暦)を採用した。中華民国では宣統 の次の元号のように「民国 」という表記で扱われている。中華民国が台湾 に逃れた1949年10月以降も、政府機関が公的な場で使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。
1949年10月1日に成立した中華人民共和国 では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので、西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。
朝鮮半島 韓国では朝鮮神話 における最初の王朝、檀君朝鮮 の初代王である檀君 の即位年とされる紀元前2333年を紀元とした檀君紀元 23 が提唱され、建国直後の西暦1948年(檀君紀元4281年)から1961年(同4294年)までは公文書に記載されていたが24 、1962年1月1日からは廃止された25 。ただし、その後も檀君紀元は民間の中で使用が続けられている26 。
北朝鮮では西暦1948年の建国から西暦のみが使われてきたが、1997年9月9日から主体年号 の使用が告知され、公式行事や同国の報道機関27 で使用されるようになった。これは同国の初代かつ唯一の国家主席 である金日成 の生誕年である西暦1912年を紀元としたもので28 、結果として民国紀元(中華民国暦)と同年となる。日本語で表記する場合には「主体□□年」、ないし朝鮮語の発音をカタカナにした「チュチェ□□年」となる29 。
東南アジア・南アジア地域 東南アジア・南アジア地域のうち、仏教 、特に上座部仏教 の信徒が多数を占めているタイ ・カンボジア ・ラオス ・ミャンマー ・スリランカ などでは、仏教の開祖である釈迦 の入滅 (死去)した年を基準とする仏滅紀元 (仏暦)が普及している。なお、ミャンマーとスリランカでは釈迦の入滅年とされる紀元前544年を紀元元年、タイ・カンボジア・ラオスではその翌年である紀元前543年を紀元元年とし、1年のずれが生じている。
特に王室 が仏教を厚く保護するタイ王国ではこの仏暦が公式文書で使われている。この場合、タイ語では仏滅紀元、西暦が普及している国で広く使われる英語や日本語では西暦で表記される例がある30 。また、西暦1940年(仏滅紀元2483年)に仏暦が9月で打ち切られて元日が揃えられ、「西暦y年m月d日=仏滅紀元y+543年m月d日」の計算式が成立したが31 、一部では整理前の年号が使用されているともいわれる(詳細は「仏滅紀元 」も参照 )。
参考文献
脚注
過去30日の閲覧 0回
下位記事 この記事に属する個別の出来事や下位の話題を、別の記事として作成できます。
+ 下位記事を作成