衛
衛は、中国の周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国。 衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。三兄の管叔鮮等が殷より周を攻め、四兄の周公旦が乱を鎮めた後に、康叔は周より衛君に封じられ、二分された殷の遺民の一方を民とし朝歌を都とした。 第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時には、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。 その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかしそのため、衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には翟によ
建国~滅亡 年不詳 ~ 紀元前209年最終更新 2026/10/16 14:45
衛(えい、紀元前11世紀 - 紀元前209年)は、中国の周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国。
衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。三兄の管叔鮮等が殷より周を攻め、四兄の周公旦が乱を鎮めた後に、康叔は周より衛君に封じられ、二分された殷の遺民の一方を民とし朝歌を都とした。
第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時には、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。
その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかしそのため、衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には翟(てき:狄)により滅ぼされるが、斉の桓公の助力により、姫燬(諡号は文公)が新たな衛君となって楚丘(現在の河南省滑県の東)を新たな都にして国を復活した。のちには亡命時代の晋の文公を冷遇して他国へ移らせ、孔子を迎え入れた時にも冷遇して他国へ追いやるなど、優秀な人材が滞在してもすぐに出国してしまう状況であった。また、公族の一人であった商鞅は魏を経て秦に仕えて活躍している。
戦国時代に入ると趙、韓、魏の半属国状態となる。 紀元前346年に「公」の爵号を引き下げて「侯」に貶号するようになり、紀元前320年にはさらに引き下げて「君」と称して、わずかに濮陽を領有するだけとなる。 紀元前252年、朝貢するため魏を訪問したが殺され、その弟で魏の公女の夫であるが衛君に就けられ、魏の傀儡国となる。 紀元前238年、が魏の東部地方を占領しを設置すると濮陽は東郡の中に併合され、衛はへ転封されて事実上滅ぼされるものの、名目的には細々と続いた。最終的には最後の衛君・が紀元前209年に秦の二世皇帝()に廃されることによって滅んだ。
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