曹植 — OpenHistory人物政治・外交
曹植
曹植は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は子建(しけん)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。魏の皇族である一方で唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学における三曹の一人。
生誕~死没 192年 ~ 232年最終更新 2026/10/16 14:49
基本情報
- 生誕 ~ 死没
- 192年 ~ 232年
- 全名
- 曹植
- 称号
- 陳王(諡:陳思王)
- 身位
- 県侯→王
- 敬称
- 殿下
目次
- 1.生涯
- 2.文学作品
- 3.著名な作品
- 4.作品訳注
- 5.参考文献
- 6.脚注
曹植(そう しょく/そう ち1、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は子建(しけん)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。魏の皇族である一方で唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学における三曹の一人。
生涯
曹操の五男で、生母は卞氏2。異母兄は曹昂・曹鑠。同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。同母弟は曹熊。妃は崔氏(崔琰の兄の娘)3。子は曹苗・曹志。娘は曹金瓠(夭折)・曹行女(夭折)。
曹昂・曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃4に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となった。幼い頃より詩など数十万言を諳んじた。群を抜いて文章に異才を放つ彼を怪しんだ曹操は「誰かに代筆を頼んだのか」と尋ねた。これに対し曹植は「言出ずれば論と為り、筆を下せば章を成す。顧だ当に面試すべし。奈何ぞ人に倩わんや」といい、曹操に特別寵愛された。
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建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられた。
曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛し、闊達さと奔放さを合わせ持った天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路(司馬門)を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともあった(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い7・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。しかし、軍事面においても飲酒によって不祥事を起こしている。関羽が樊城の曹仁を包囲した際に、曹操は曹植を南中郎将・行征虜将軍として援軍に派遣しようとした。しかし、曹植は酒に酔って曹操の招集に応じることができなかったため、徐晃が派遣されたこともあった。
建安19年(214年)には臨淄侯に転封された。この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛が深くなった。同時に曹丕との後継争いが勃発した。曹植には楊修・丁儀・丁廙・邯鄲淳・楊俊・荀惲・孔桂・応瑒・応璩らが側近としてつき、曹丕には東曹の人がつくようになり、彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった68。
建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に鄄城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去するまで各地を転々とさせられた。
この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、曹丕と曹叡(明帝)に対し幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に曹叡の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増えた。曹叡は族父の曹植を起用しようとしたが、讒言で断念した。その後も鬱々とした日々を送り、太和6年(232年)11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。
曹植は中国を代表する文学者として名高いが、詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。
文学作品
漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それらは無名の民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、曹植の父や兄、または王粲・劉楨らの建安七子によって、個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、その表現技法をさらに深化させた。
曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。詠われる内容も、洛陽の貴公子の男伊達を詠う「名都篇」や、勇敢な若武者の様子を詠う「白馬篇」のように勇壮かつ華麗なもの、友人との別離を詠んだ「応氏を送る」二首や、網に捕らわれた雀を少年が救い出すという「野田黄雀行」、異母弟とともに封地へ帰還することを妨害された時に詠った「白馬王彪に贈る」、晩年の封地を転々とさせられる境遇を詠った「吁嗟篇」などのように悲壮感あふれるもの、「喜雨」・「泰山梁甫行」など庶民の喜びや悲しみに目を向けたものなど、先人よりも幅広く多様性に富んでいる。南朝梁の鍾嶸は、『詩品』の中で曹植の詩を最上位の上品に列し、その中でも「陳思の文章に於けるや、人倫の周孔(周公旦・孔子)有るに譬う」と最上級の賛辞を送っている。
なお、彼の最高傑作ともいわれる「洛神の賦」は、曹丕の妃である甄氏への恋慕から作ったという説もあるが9、疑わしい。
三国志演義においては、実兄である曹丕の前で詠んだとされる七歩詩が極めて有名である。
(豆を煮るに豆がらを燃やし 豆は釜中に在りて泣く 本より是れ同根に生ぜしに 相い煎ること何ぞはなはだ急なる)
これは煮豆燃萁(しゃとうねんき)という故事成語になった。なお、曹丕も三曹に数えられる優れた文学者であった。
2022年には岩波文庫より三曹こと曹操・曹丕・曹植の作品を集めた本が刊行された。
参考までに「野田黄雀行」を意訳と共に下に記す10。
著名な作品
【詩】 ・公讌 ・送應氏 ・贈丁儀王粲 ・贈徐幹 ・贈丁儀 ・贈丁廙 ・贈王粲 ・贈白馬王彪 ・情詩 ・朔風 ・七哀
【楽府】 ・洛神賦 ・箜篌引 ・闘鶏 ・白馬篇 ・名都篇 ・薤露行 ・美女篇遠遊篇 ・泰山梁甫行 ・盤石篇 ・野田黄雀行 ・種葛篇 ・浮萍篇 ・怨歌行 ・吁嗟篇
作品訳注
- 伊藤正文訳注 『曹植』〈中国詩人選集3〉岩波書店、1958年。※重版多数
- 川合康三編訳 『曹操・曹丕・曹植詩文選』 岩波文庫、2022年。ISBN 4003204611
参考文献
- 趙幼文 『曹植集校注』 人民文学出版社、1984年、ISBN 9787020026807。
- 呂慧鵑ほか編『中国歴代著名文学家評伝 第1巻』 山東教育出版社、1983年、ISBN 9787532861897。
- 曹海東注釈・蕭麗華校閲『新訳曹子建集』 三民書局〈古籍今注新訳叢書〉、2003年、ISBN 9571437980。※繁体字。作品毎に、題解・原文(注音字母によるルビ付)・注釈・現代語訳・賞析、巻末には逸文をまとめてあるという精細なもの。
- 伊藤正文『建安詩人とその伝統』 創文社、2002年。のち講談社「創文社オンデマンド叢書」で再刊
- 興膳宏編『六朝詩人傳』 大修館書店、2000年。原典編訳・解説
- 興膳宏編『六朝詩人群像』 大修館書店〈あじあブックス〉、2001年。列伝で川合康三が担当
- 興膳宏・川合康三『文選 精選訳注』講談社学術文庫、2023年。旧版は『文選 鑑賞中国の古典12』 角川書店、1988年
- 井波律子『中国的レトリックの伝統』 影書房、1987年、講談社学術文庫、1996年
- 川合康三『曹操 矛を横たえて詩を賦す』 集英社、1986年、ちくま文庫、2009年
脚注
曹植(そう しょく/そう ち1、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は子建(しけん)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。魏の皇族である一方で唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学における三曹の一人。
生涯
曹操の五男で、生母は卞氏2。異母兄は曹昂・曹鑠。同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。同母弟は曹熊。妃は崔氏(崔琰の兄の娘)3。子は曹苗・曹志。娘は曹金瓠(夭折)・曹行女(夭折)。
曹昂・曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となった。幼い頃より詩など数十万言を諳んじた。群を抜いて文章に異才を放つ彼を怪しんだ曹操は「誰かに代筆を頼んだのか」と尋ねた。これに対し曹植は「言出ずれば論と為り、筆を下せば章を成す。顧だ当に面試すべし。奈何ぞ人に倩わんや」といい、曹操に特別寵愛された。
建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられた。
曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛し、闊達さと奔放さを合わせ持った天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路(司馬門)を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともあった(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い7・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。しかし、軍事面においても飲酒によって不祥事を起こしている。関羽が樊城の曹仁を包囲した際に、曹操は曹植を南中郎将・行征虜将軍として援軍に派遣しようとした。しかし、曹植は酒に酔って曹操の招集に応じることができなかったため、徐晃が派遣されたこともあった。
建安19年(214年)には臨淄侯に転封された。この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛が深くなった。同時に曹丕との後継争いが勃発した。曹植には楊修・丁儀・丁廙・邯鄲淳・楊俊・荀惲・孔桂・応瑒・応璩らが側近としてつき、曹丕には東曹の人がつくようになり、彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった68。
建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に鄄城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去するまで各地を転々とさせられた。
この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、曹丕と曹叡(明帝)に対し幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に曹叡の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増えた。曹叡は族父の曹植を起用しようとしたが、讒言で断念した。その後も鬱々とした日々を送り、太和6年(232年)11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。
曹植は中国を代表する文学者として名高いが、詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。
文学作品
漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それらは無名の民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、曹植の父や兄、または王粲・劉楨らの建安七子によって、個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、その表現技法をさらに深化させた。
曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。詠われる内容も、洛陽の貴公子の男伊達を詠う「名都篇」や、勇敢な若武者の様子を詠う「白馬篇」のように勇壮かつ華麗なもの、友人との別離を詠んだ「応氏を送る」二首や、網に捕らわれた雀を少年が救い出すという「野田黄雀行」、異母弟とともに封地へ帰還することを妨害された時に詠った「白馬王彪に贈る」、晩年の封地を転々とさせられる境遇を詠った「吁嗟篇」などのように悲壮感あふれるもの、「喜雨」・「泰山梁甫行」など庶民の喜びや悲しみに目を向けたものなど、先人よりも幅広く多様性に富んでいる。南朝梁の鍾嶸は、『詩品』の中で曹植の詩を最上位の上品に列し、その中でも「陳思の文章に於けるや、人倫の周孔(周公旦・孔子)有るに譬う」と最上級の賛辞を送っている。
なお、彼の最高傑作ともいわれる「洛神の賦」は、曹丕の妃である甄氏への恋慕から作ったという説もあるが9、疑わしい。
三国志演義においては、実兄である曹丕の前で詠んだとされる七歩詩が極めて有名である。
(豆を煮るに豆がらを燃やし 豆は釜中に在りて泣く 本より是れ同根に生ぜしに 相い煎ること何ぞはなはだ急なる)
これは煮豆燃萁(しゃとうねんき)という故事成語になった。なお、曹丕も三曹に数えられる優れた文学者であった。
2022年には岩波文庫より三曹こと曹操・曹丕・曹植の作品を集めた本が刊行された。
参考までに「野田黄雀行」を意訳と共に下に記す10。
著名な作品
【詩】 ・公讌 ・送應氏 ・贈丁儀王粲 ・贈徐幹 ・贈丁儀 ・贈丁廙 ・贈王粲 ・贈白馬王彪 ・情詩 ・朔風 ・七哀
【楽府】 ・洛神賦 ・箜篌引 ・闘鶏 ・白馬篇 ・名都篇 ・薤露行 ・美女篇遠遊篇 ・泰山梁甫行 ・盤石篇 ・野田黄雀行 ・種葛篇 ・浮萍篇 ・怨歌行 ・吁嗟篇
作品訳注
- 伊藤正文訳注 『曹植』〈中国詩人選集3〉岩波書店、1958年。※重版多数
- 川合康三編訳 『曹操・曹丕・曹植詩文選』 岩波文庫、2022年。ISBN 4003204611
参考文献
- 趙幼文 『曹植集校注』 人民文学出版社、1984年、ISBN 9787020026807。
- 呂慧鵑ほか編『中国歴代著名文学家評伝 第1巻』 山東教育出版社、1983年、ISBN 9787532861897。
- 曹海東注釈・蕭麗華校閲『新訳曹子建集』 三民書局〈古籍今注新訳叢書〉、2003年、ISBN 9571437980。※繁体字。作品毎に、題解・原文(注音字母によるルビ付)・注釈・現代語訳・賞析、巻末には逸文をまとめてあるという精細なもの。
- 伊藤正文『建安詩人とその伝統』 創文社、2002年。のち講談社「創文社オンデマンド叢書」で再刊
- 興膳宏編『六朝詩人傳』 大修館書店、2000年。原典編訳・解説
- 興膳宏編『六朝詩人群像』 大修館書店〈あじあブックス〉、2001年。列伝で川合康三が担当
- 興膳宏・川合康三『文選 精選訳注』講談社学術文庫、2023年。旧版は『文選 鑑賞中国の古典12』 角川書店、1988年
- 井波律子『中国的レトリックの伝統』 影書房、1987年、講談社学術文庫、1996年
- 川合康三『曹操 矛を横たえて詩を賦す』 集英社、1986年、ちくま文庫、2009年
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