文咨明王
文咨明王は、高句麗の第21代の王。姓は高、諱は羅雲。王号は明治好王(명치호왕)ともいう。『三国遺事』王暦では明理好王个雲とも記される。先代の長寿王の孫であり、父は長寿王の王子の古鄒大加の助多だが、助多が早くに亡くなったために羅雲は大孫とされた。長寿王が491年12月に死去し、年が改まって492年に王位についた。中国史書には「雲」として現れる。
生誕~死没 年不詳 ~ 519年最終更新 2026/10/16 14:49
基本情報
- 生誕 ~ 死没
- 年不詳 ~ 519年
- ハングル:
- 문자명왕
- 漢字:
- 文咨明王
- 発音:
- ムンジャミョンワン
- 英語:
- Munjamyeong-Wang
文咨明王(ぶんしめいおう、生年不詳 - 519年)は、高句麗の第21代の王(在位:492年 - 519年)。姓は高、諱は羅雲。王号は明治好王(명치호왕)ともいう。『三国遺事』王暦では明理好王个雲とも記される。先代の長寿王の孫であり、父は長寿王の王子の古鄒大加の助多だが、助多が早くに亡くなったために羅雲は大孫とされた。長寿王が491年12月に死去し、年が改まって492年に王位についた。中国史書には「雲」として現れる。
治世
先代の長寿王に引き続き、中国に対しては南北朝両面に通好し、北魏からは<使持節・都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王>、南斉からは<使持節・散騎常侍・都督営平二州・征東大将軍・楽浪公>と冊封された。その後も北朝・南朝(502年に梁に代わる)の両者に対して朝貢を続け、中国側からも冊封体制下での高い評価を受け続けた。梁からは502年に車騎大将軍、508年に<撫軍大将軍・開府儀同三司>と進号された(『三国史記』には「軍を東と書くものもある」と分注がある)。ただし、一方的に中国王朝に従属したのではなく、北魏からは世子の入朝を求められたにもかかわらず、病気を理由として世子の代わりに父の従弟を送っている。494年には扶余王が妻子とともに降伏してきたのを受け容れた。
長寿王の時代に半島内に最大版図を築いてはいたが、文咨明王代になると百済・新羅が同盟(羅済同盟)して対抗していたため、これら二国に対しては大きな戦果をあげることはできなかった。494年には薩水(清川江)の原(忠清北道槐山郡)で新羅と戦って犬牙城(忠清北道槐山郡)に追い詰めたが、百済が3千人の兵を送って新羅を援けたので、新羅の包囲を解いて引き上げた。495年には百済の雉壌城(黄海南道白川郡)を包囲したが、新羅が援兵を派遣したために引き上げることとなった。496年には新羅の牛山城を攻めたが勝てず、翌497年にようやく攻め落とすことができた。逆に503年には百済に攻め入られ、水谷城(黄海北道新渓郡多栗面)を落とされる。507年には靺鞨と共同で百済の漢城()を攻めようとしたが、百済軍に迎撃されて引き返している。512年9月にも百済に攻め入り、加弗城・円山城を陥落させ、男女一千人余りの捕虜を得た。
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