張譲
張 譲は、中国後漢末期の宦官。豫州潁川郡の人。弟は張朔。養子の張奉の妻は何太后の妹。
生誕~死没 年不詳 ~ 189年最終更新 2026/10/16 15:01
張 譲(ちょう じょう、陽嘉4年(135年)? - 光熹元年(189年))は、中国後漢末期の宦官。豫州潁川郡の人。弟は張朔。養子の張奉の妻は何太后の妹。
生涯
若い頃、趙忠と共に給事中の地位にあり、桓帝の時代に少黄門となった。霊帝の時代には趙忠と共に中常侍となり、曹節・王甫・侯覧らと共に権勢を誇り、皇帝の寵愛をいいことに私腹を肥やした。右扶風の人である孟佗(孟達の父)という人物は、宦官に賄賂を送り涼州刺史の地位を手にしたと言われているが、その宦官こそが張譲である。
侯覧が自害、王甫が刑死し、曹節も光和4年(181年)に病没すると、張譲が趙忠と共に宦官勢力の中心となった。張譲は霊帝に我が父とまで呼ばれ敬愛された。この時期に中常侍に任命された12名の宦官(十常侍)の中に張譲の名も挙がっており、彼等は皆列侯に封じられ、一族を各地の地方官に任命させ、栄華をほしいままにしたという。
中平元年(184年)、太平道の教主張角が乱を起こすと(黄巾の乱)、郎中の張鈞は十常侍が乱の原因であるとして、彼等を斬って天下に謝罪することを要請した。しかし十常侍らは霊帝に対し、自らの処罰を懇願すると共に各地の地方官である一族を罷免させ、さらに私財を国庫に提供したため、不問に付されることになった。その後、張譲達は早速張鈞を黄巾党の内通者であると讒言し、死に追いやった。しかし、実は張譲達十常侍こそが黄巾党との内通者であった。まもなく、中常侍の封諝・徐奉が黄巾党の内通者であることが発覚すると、さらに王允は、張譲こそが実は太平道の信者であることを暴露した上で、霊帝に処置を求めた。激怒する霊帝に対し、張譲は既に死去した王甫と侯覧に責任を擦り付け、またも処罰を逃れてしまった。そしてその後、早速王允を讒言し免職に追いやった。さらに宦官を批判したも免職させた。
この記事は日本語版ウィキペディアの「張譲」をもとに作成されており、 (r104109553) CC BY-SA 4.0 ライセンスのもとで利用できます。原文の投稿者一覧は 原文の履歴で確認できます。
最終更新 2026/10/16 15:01 · r272572 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。