張繡
張 繡は、中国後漢末期の武将。季父は張済。子は張泉・女子一人。涼州武威郡祖厲県(現在の甘粛省武威市靖遠県)の人。『三国志』巻8「魏書」二公孫陶四張伝に伝がある。
生誕~死没 年不詳 ~ 207年最終更新 2026/10/16 14:45
張 繡(ちょう しゅう)は、中国後漢末期の武将。季父は張済1。子は張泉・女子一人。涼州武威郡祖厲県(現在の甘粛省武威市靖遠県)の人。『三国志』巻8「魏書」二公孫陶四張伝に伝がある。
生涯
若い頃は県長劉雋の抜擢を得て、県吏として仕えた。しばらくして、韓遂・辺章らに呼応した麹勝が謀反を起こし、劉雋を殺害した。張繡は隙を見て麹勝を暗殺し、上司の仇を討ち武名を挙げた。その後、当時董卓の配下であった季父の張済に従った。李傕郭汜政権下で建忠将軍・宣威侯となっている2。
建安元年(196年)、季父が南陽郡の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したために、その軍勢を張繡が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった賈詡は、張繡に対し「将軍(張繡)は軍才に優れておられるが、曹操には及ばない」と語ったと言われる。張繡は賈詡の進言に従い、賈詡を派遣して劉表と同盟を結んだ。張繡は宛に駐屯し、劉表軍と合流した。
建安2年(197年)春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡き季父の張済の妻であった未亡人を側妾にしたために、張繡は恨みを抱くようになった。曹操は張繡が恨んでいる事を知ると、密かに張繡を殺害する計画を立てた。しかし張繡はこの計画に気づくと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張繡は、曹昂・曹安民・典韋などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張繡は騎兵を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張繡は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が許昌に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張繡に味方する事になった。
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