康熙帝 — OpenHistory
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康熙帝 康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。満洲人、君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。 西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされ、大帝とも称される。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝聖宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康熙帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている
生誕~死没 1654年5月4日 ~ 1722年12月20日 最終更新 2026/10/16 15:02
基本情報
生誕 ~ 死没 1654年5月4日 ~ 1722年12月20日
王朝 清
姓・諱 愛新覚羅 玄燁(アイシンギョロ・ヒョワンイエイ)
満洲語 ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ, ᡥᡳᠣᠸᠠᠨ ᠶᡝᡳ, aisin gioro hiowan yei
諡号 仁皇帝 (gosin hūwangdi), 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝 (abka de teherehe, forgon be badarambuha, šu horonggo, genggiyen mergen, gungnecuke boljonggo, onco elgiyen, hiyoošungga ginggun, unenggi akdun, gung erdemu be ambarame šanggabuha gosin hūwangdi), 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信中和功徳大成仁皇帝 (abka de teherehe, forgon be badarambuha, šu horonggo, genggiyen mergen, gungnecuke boljonggo, onco elgiyen, hiyoošungga ginggun, unenggi akdun, dulimba hūwaliyasun, gung erdemu be ambarame šanggabuha gosin hūwangdi)
廟号 聖祖
陵墓 景陵 (ambalinggū munggan) 年号 康熙 (elhe taifin): 1662年 - 1722年
位置 39.9040, 116.4075 大きな地図で同時代を見る → 目次 1. 即位 2. 三藩の乱 3. 外征と晩年 4. 北方民族の王者 5. 国内政策 6. 后妃と子女 6.1. 正室 6.2. 側室 7. 逸話 8. 登場作品 8.1. 小説 8.2. テレビドラマ 9. 参考文献 9.1. 論文 10. 関連文献 康熙帝 (こうきてい)は、清 の第4代皇帝 。諱 は玄燁 (げんよう、燁は火偏 に華)。満洲人 、君主としての称号はモンゴル語 でアムフラン・ハーン、廟号 は聖祖 。在世時の元号 康熙 を取って康熙帝と呼ばれる。
西洋文化を積極的に取り入れ、唐 の太宗 とともに、中国歴代最高の名君とされ、大帝 とも称される。その事実は歴代皇帝の中で聖 の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋 と澶淵の盟 を締結させた遼 最盛期の皇帝聖 宗 の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖 の文字も、通常は漢 の高祖(太祖高皇帝)劉邦 など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康熙帝は4代目であるにもかかわらず太祖 ・世祖 に続いて3番目に贈られている。
即位
順治帝 の第3子として生まれる。疱瘡 にかかったことを口実に城外に出され、乳母 の手で育てられた。順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄燁は祖母である孝荘文皇后 により厳格にしつけられた。順治 18年(1661年)、病状が悪化した順治帝は、玄燁が疱瘡を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由として皇太子に指名した。順治帝は同年に崩御し、玄燁は8歳で皇帝に即位した1 。一説によると宮中で育てられず、北京 のつましい地区で育てられたということであり、順治帝が崩御して宦官 が迎えに来たとき、康熙帝は同年代の子供と路上で遊んでいた。もしこれが事実なら、人間形成の大事な時期に庶民 の生活に触れて、宦官の毒気に当てられないで済んだわけである2 。順治帝の により、即位後は ・ ・ ・ の重臣4人による合議で政権運営が行われた。 6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙8年(1669年)、康熙帝はソニンの遺児 と謀って、 にかこつけてオボイを捕らえて排除し、16歳の時に親政を始めた。
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生誕 ~ 死没 1654年5月4日 ~ 1722年12月20日
王朝 清
姓・諱 愛新覚羅 玄燁(アイシンギョロ・ヒョワンイエイ)
満洲語 ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ, ᡥᡳᠣᠸᠠᠨ ᠶᡝᡳ, aisin gioro hiowan yei
諡号 仁皇帝 (gosin hūwangdi), 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝 (abka de teherehe, forgon be badarambuha, šu horonggo, genggiyen mergen, gungnecuke boljonggo, onco elgiyen, hiyoošungga ginggun, unenggi akdun, gung erdemu be ambarame šanggabuha gosin hūwangdi), 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信中和功徳大成仁皇帝 (abka de teherehe, forgon be badarambuha, šu horonggo, genggiyen mergen, gungnecuke boljonggo, onco elgiyen, hiyoošungga ginggun, unenggi akdun, dulimba hūwaliyasun, gung erdemu be ambarame šanggabuha gosin hūwangdi)
廟号 聖祖
陵墓 景陵 (ambalinggū munggan) 年号 康熙 (elhe taifin): 1662年 - 1722年
位置 39.9040, 116.4075 大きな地図で同時代を見る →
三藩の乱 康熙12年(1673年)、三藩の乱 が起こった。明 の臣であった呉三桂 は順治帝に山海関 を明け渡して清に投降し、その後は南に逃れた南明 の永暦帝 を殺したことで功績大と認められ、皇族やモンゴル王侯ではないにもかかわらず旗王 と同格の親王 の爵位 を授けられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜 ・耿精忠 の3人の藩王は、それぞれ雲南 ・広東 ・福建 を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体をなしていた。
康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3人だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、呉三桂は清から分離して周 を建国し、鄭氏台湾 の鄭経 もこれに呼応した。そのため清は、一時期長江 以南を全て奪われるなど、崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満洲 に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。そして、毎日数百も及ぶ報告に対して適切に対応した。呉三桂たちは「満洲人を追い出して漢人の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢人の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので、民衆は支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公 らを起用したことで、清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に周を滅ぼして三藩の乱は鎮圧された。その2年後には李光地 の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅 を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。
外征と晩年 1670年代、ジュンガル部 のガルダン・ハーン (噶爾丹)がオイラト の覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ 部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決(清・ジュンガル戦争 )、みずから軍勢を率いての戦闘を経て、康熙35年(1696年)に致命的打撃をガルダンに与えることに成功(ジョーン・モドの戦い )、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢 を行い、冊封 を受けるのみで、他の朝貢国と同様に内政自主権を行使していたが、これ以後は清の盟旗制度 に組み込まれることとなる。
18世紀初め、ダライ・ラマ6世 を巡って生じたチベット の内紛で、青海 のグシ・ハン王家 の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラブタン が同盟を結び、康熙56年(1717年)にジュンガル軍がチベットへ侵攻し、ラサ を制圧、チベットのラサン・ハン を殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じ、康熙57年(1718年)にチベットへ出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川の戦い )。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主だった者たちを、当初ジュンガルと同盟した者たちを含めて北京 に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功した。康熙59年(1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍した。ガリー のガルトク の知事カンチェンネー とラサンハン軍にいたツァン のポラネー らゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て、戦わずして中央チベットから撤退していった。
康熙帝は「グシ・ハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年(1721年)には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封しないまま没し、チベットの戦後統治処理は次代の雍正帝 の手に委ねられることになる。
康熙60年(1721年)、朱一貴 が台湾 の阿里港 (現在の里港郷)で反乱を起こしたが、総兵藍廷珍 とその族弟藍鼎元 を派遣し、翌康熙61年(1722年)に平定した。この年の正月、在位61年の宴会で機嫌よくした康熙帝は大臣たちを私室に招き、機嫌よく思い出話をした。
「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は20、30、40年と在位するとは思わなかった。50の時も60年も在位するとは思いもかけなかった。今はもう61年である。歴史によれば、70歳に達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。私はいつも臣下に寛大にふるまい、大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。こうやって向かい合っている君臣が髪 も髭 も白くなっているとは楽しいことではないか。」
康熙61年11月8日、康熙帝は冷風に当たり高熱を出し、その6日後の11月14日に崩御した。順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵 に陵墓がある。
1691年に国内でキリスト教 を邪教として扱い宣教師 を追放した動きがあったが、この際康熙帝は寛容な態度をとり、「西洋人は我が国の暦法を助け、軍事面においても大砲 を造った。これらの誠心を認め、布教事業の禁止はしない」と1692年に命令を下した。しかし、1704年にローマ教皇が中国に圧力をかけようと派遣した鐸羅 との謁見で中国に対する『禁約文』を出されて態度が変わった。ローマ法王のこのような行為は中国への内政干渉であると立腹し、中国の法律に違反した宣教師らを国外に追放、さらに鐸羅をマカオ に追放するなどとした5 。
北方民族の王者 康熙22年(1683年)からほとんど毎年、康熙帝は夏にはムラン・イ・アバ(muran i aba、木蘭囲場。現在の承徳市 囲場満族モンゴル族自治県 )に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年(1703年)には熱河 に離宮避暑山荘 を造り、毎年夏から秋にかけて北京 を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は、家法として雍正帝 や乾隆帝 にも受け継がれていく。
国内政策 康熙帝は内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明 代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれる。また、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税をたびたび行った。また、丁銀 (人頭税)の額を康熙50年(1711年)の調査で登録された人丁(16歳から59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した(盛世滋生人丁 )。これは地丁銀制 へとつながる。
「黄河の治水」と「漕運の整備」を目的として、六度にわたる「南巡」を熱心に行った。この南巡は、費用のすべてを宮廷が負担するという徹底したものだった。
文字の獄 をはじめたのも彼の代からであり、その政策は子の雍正帝、孫の乾隆帝にも受け継がれた。
后妃と子女 康熙帝の第一子は康熙 6年 (1667) 旧暦9月 (康熙帝が満13歳の年) に生まれて承瑞と名づけられ、第二子・承祐、第三子・承慶ともに名の頭に「承」の字を冠した7 が、しかし、この三子はともに夭折した。「承」の字は不吉だとして、第四子には満洲語 で「賽音察渾」と名づけたが、これもやはり夭折した。第五子は保清と名づけられ、続いて第六子に允礽がうまれ、その下に更に三人 (長華、長生、萬黼) あったが、この三人はまたも夭折し、第五子・保清 と第六子・允礽 のみが成人した。これがのちの大阿哥と二阿哥である (「阿哥age」は満洲語で「皇子」の意8 )。従って、康熙帝の第一皇子 (大阿哥) と第二皇子 (二阿哥) は、それぞれ第五子、第六子ということになる。9
二阿哥・允礽の後に生まれた兄弟は同輩として「胤」で統一されるようになり (三阿哥・胤祉 、四阿哥・胤禛……)、大阿哥・保清ものちに胤禔と改められた。但し、四阿哥・胤禛 (後の雍正帝 ) が践祚すると、「胤」は避諱 の対象となり「允」に改められた。9 なお、便宜上、ここでは大阿哥・胤禔以下をすべて「胤」で統一した。
康熙帝には最終的に35人の子と20人の娘があったが、成人したのは子が24人、娘が8人であった。9 そのうち、九人の皇子がのちに帝位をめぐって暗闘を繰り広げ、それを制して践祚したのが四阿哥・胤禛 (後の雍正帝) である。一連の暗闘は「九子奪嫡 」と呼ばれ、また、当時多くの者が予期しなかった胤禛践祚に関する種々の噂は、民間に「雍正簒位」として拡まった。
正室
側室
ウヤ(烏雅)氏孝恭仁皇后
皇四子・胤禛:後の雍正帝 。
皇六子・胤祚 :夭逝。11
皇七女:夭逝。
皇九女:固倫温憲公主。
皇十二女:夭逝。
皇十四子・胤禵12 13 :乾隆 20年に薨去、諡号・恂勤郡王。11
トゥンギャ(佟佳)氏愨恵皇貴妃 :康熙帝の母方従妹、孝懿仁皇后の妹。
グワルギャ(瓜爾佳)氏惇怡皇貴妃
ジャンギャ(章佳)氏敬敏皇貴妃
皇十三子・胤祥 :雍正8年に薨去、諡号・怡賢親王。11
皇十三女:和碩温恪公主 。
皇十五女:和碩敦恪公主。
ニオフル(鈕祜禄)氏温僖貴妃 :孝昭仁皇后の妹。
皇十子・胤䄉 :康熙48年に敦郡王、雍正2年に剥奪、乾隆2年に輔国公、同6年に卒去。11
皇十一女
王氏順懿密妃
皇十五子・胤禑:雍正9年に薨去、諡号・愉恪郡王。11
皇十六子・胤禄:乾隆32年に薨去、諡号・荘恪親王。11
皇十八子・胤祄:夭逝。
陳氏純裕勤妃
ウラナラ氏 恵妃
承慶:第三子、夭逝。9 11
皇長子・胤禔 :康熙37年に直郡王、同47年に剥奪、雍正12年に卒去。11
ゴロロ(郭絡羅)氏宜妃
皇五子・胤祺 :雍正10年に薨去、諡号・恒温親王。11
皇九子・胤禟 :康熙48年にベイセ、雍正3年に剥奪。11
皇十一子・胤禌:夭逝。11
マギャ(馬佳)氏栄妃
承瑞:第一子。夭逝。9 11
サインチャフン(賽音察渾):第四子、夭逝。9 11
皇三女:固倫栄憲公主。
長華:第七子、夭逝。9 11
長生:第八子、夭逝。9 11
皇三子・胤祉 :雍正10年に薨去、諡号・誠隠親王。11
ワンリュハ(瓦劉哈)氏定妃
皇十二子・胤祹 :乾隆28年に薨去、諡号・履親王。11
ボルジギン (博爾済吉特)氏宣妃
ダイギャ(戴佳)氏成妃
皇七子・胤祐 :雍正8年に薨去、諡号・淳度親王。11
衛氏良妃
皇八子・胤禩 :康熙61年に廉親王、雍正4年に剥奪。11
ヘシェリ氏 平妃 :孝誠仁皇后の妹。
ボルジギン (博爾済吉特)氏慧妃
高氏襄嬪
皇十九子・胤禝:夭逝。
皇十九女:夭逝。
皇二十子・胤禕:乾隆23年に卒去、諡号・簡静ベイレ。11
陳氏熙嬪
皇二十一子・胤禧:乾隆23年に薨去、諡号・慎靖郡王。11 15
セヘトゥ(色赫図)氏謹嬪
皇二十二子・胤祐16 :乾隆8年に卒去、諡号・恭勤ベイレ。11
石氏静嬪
皇二十三子・胤祁:乾隆50年に卒去、諡号・誠郡王。11
陳氏穆嬪
皇二十四子・胤祕:乾隆38年に薨去、諡号・誠親王。11
ウラナラ氏 通嬪
董氏端嬪
ヘシェリ(赫舎里)氏僖嬪
ジョーギャ(兆佳)氏貴人
ゴロロ(郭絡羅)氏貴人:宜妃の妹。
袁氏貴人
ナラ氏 貴人
ナラ氏 貴人
陳氏貴人
張氏庶妃
王氏庶妃
劉氏庶妃
ニオフル(鈕祜禄)氏庶妃
逸話
上述のように 狩猟が得意であり、生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒した逸話が残っている17 。
外見は背格好は中以上、漢人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘 のあとが残っている、目は普通の漢人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる18 。
能力は俊敏で、洞察力や知性、記憶力に優れ、驚くべき天分の広さ、いかなる事件に耐えられる剛毅さを持ち、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており、威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり、大王にふさわしい、と絶賛されている18 。
学問を非常に好み、孔子 の著書の大半やその他にも多くの古典を暗記していた。また、西洋の学問にも深く興味を抱き、幾何学 ・科学 ・天文学 をよく学んだ19 。
フェルディナント・フェルビースト と湯光先 を臨時の会議に呼び出し、中国天文学と西洋天文学のどちらが正しいかを確かめるため訊問し、西洋天文学の正しさを実証させた20 。
呉三桂など多くの漢人の反乱に悩まされたが、不眠不休で連日連夜にわたり会議を行い命令を下した。適切な対応をしたため、数で勝る漢人を懐柔すること成功した21 。
モンゴルの王が反乱を起こそうとすると、すぐさま北京の軍とモンゴルに隣接する遼東省 の軍を合流させた混合軍を送った。モンゴルの王は自軍の情勢も兵力集中も隣国の協力も得られずに敗北し、兄弟と王子が俘虜 となった22 。
飢饉の時に諸省の税を免除して、米倉を解放した。被害の大きい地域には米 と金 を分配した。また、六部 を新築するために北京に集まっていた貧民を使役し、彼らの困窮を救った。中国史で起こりがちであった農民反乱を、こうして未然に防ぐことに成功している23 。
康熙帝は時折巡幸して国民と官吏を視察した、その時、身分の低い者でもそばに行くことができ、彼らに親切で慈愛のある態度を取った。そして官吏に満足しているかを尋ねた24 。
生活は質素であり、食事は普通のもので満足した。また離宮を建設した時、豪勢さを反映するものは見当たらず、質素であった。衣服も豹の毛皮と一般的に用いられるものだった25 。
皇子の教育にも熱心であり、歩き始めるとすぐに馬術・弓術・銃術を教えた。また、皇子たちが過保護 にされるのを好まず、労働・労苦を与えて、粗悪な肉類を食べるように躾けた26 。
明の残党狩りをかわして75歳まで生き延びていた崇禎帝 の第5子である朱慈煥 を捕らえると「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」として凌遅刑 によって処刑。さらにその子と孫を含む一族をことごとく処刑して、明の皇統を根絶やしにしている27 。隠棲していた前王朝の末裔を60年以上も経ってから族滅したことで汚点を残す結果となっている。
登場作品
小説
『鹿鼎記 』:武侠小説。映画・ドラマ化もされている。
テレビドラマ
康熙帝を主人公とするドラマ
康熙帝が登場するドラマ
参考文献
論文
関連文献
岡田英弘『大清帝国隆盛期の実像 第四代康熙帝の手紙から』藤原書店、2016年。上記「康煕帝の手紙」改題再版
『皇帝たちの中国』原書房、1998年。ワック、2006年、新版2022年。第5章「清の聖祖康煕帝」
『イエズス会 士中国書簡集 1 康熙編』矢沢利彦 編訳、平凡社 東洋文庫
長与善郎 『大帝康熙 支那統治の要道』岩波新書 、1938年
脚注
テレビドラマ
康熙帝 (こうきてい)は、清 の第4代皇帝 。諱 は玄燁 (げんよう、燁は火偏 に華)。満洲人 、君主としての称号はモンゴル語 でアムフラン・ハーン、廟号 は聖祖 。在世時の元号 康熙 を取って康熙帝と呼ばれる。
西洋文化を積極的に取り入れ、唐 の太宗 とともに、中国歴代最高の名君とされ、大帝 とも称される。その事実は歴代皇帝の中で聖 の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋 と澶淵の盟 を締結させた遼 最盛期の皇帝聖 宗 の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖 の文字も、通常は漢 の高祖(太祖高皇帝)劉邦 など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康熙帝は4代目であるにもかかわらず太祖 ・世祖 に続いて3番目に贈られている。
即位
順治帝 の第3子として生まれる。疱瘡 にかかったことを口実に城外に出され、乳母 の手で育てられた。順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄燁は祖母である孝荘文皇后 により厳格にしつけられた。順治 18年(1661年)、病状が悪化した順治帝は、玄燁が疱瘡を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由として皇太子に指名した。順治帝は同年に崩御し、玄燁は8歳で皇帝に即位した1 。一説によると宮中で育てられず、北京 のつましい地区で育てられたということであり、順治帝が崩御して宦官 が迎えに来たとき、康熙帝は同年代の子供と路上で遊んでいた。もしこれが事実なら、人間形成の大事な時期に庶民 の生活に触れて、宦官の毒気に当てられないで済んだわけである 。順治帝の により、即位後は ・ ・ ・ の重臣4人による合議で政権運営が行われた。 6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙8年(1669年)、康熙帝はソニンの遺児 と謀って、 にかこつけてオボイを捕らえて排除し、16歳の時に親政を始めた。
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三藩の乱 康熙12年(1673年)、三藩の乱 が起こった。明 の臣であった呉三桂 は順治帝に山海関 を明け渡して清に投降し、その後は南に逃れた南明 の永暦帝 を殺したことで功績大と認められ、皇族やモンゴル王侯ではないにもかかわらず旗王 と同格の親王 の爵位 を授けられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜 ・耿精忠 の3人の藩王は、それぞれ雲南 ・広東 ・福建 を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体をなしていた。
康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3人だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、呉三桂は清から分離して周 を建国し、鄭氏台湾 の鄭経 もこれに呼応した。そのため清は、一時期長江 以南を全て奪われるなど、崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満洲 に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。そして、毎日数百も及ぶ報告に対して適切に対応した。呉三桂たちは「満洲人を追い出して漢人の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢人の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので、民衆は支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公 らを起用したことで、清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に周を滅ぼして三藩の乱は鎮圧された。その2年後には李光地 の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅 を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。
外征と晩年 1670年代、ジュンガル部 のガルダン・ハーン (噶爾丹)がオイラト の覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ 部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決(清・ジュンガル戦争 )、みずから軍勢を率いての戦闘を経て、康熙35年(1696年)に致命的打撃をガルダンに与えることに成功(ジョーン・モドの戦い )、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢 を行い、冊封 を受けるのみで、他の朝貢国と同様に内政自主権を行使していたが、これ以後は清の盟旗制度 に組み込まれることとなる。
18世紀初め、ダライ・ラマ6世 を巡って生じたチベット の内紛で、青海 のグシ・ハン王家 の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラブタン が同盟を結び、康熙56年(1717年)にジュンガル軍がチベットへ侵攻し、ラサ を制圧、チベットのラサン・ハン を殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じ、康熙57年(1718年)にチベットへ出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川の戦い )。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主だった者たちを、当初ジュンガルと同盟した者たちを含めて北京 に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功した。康熙59年(1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍した。ガリー のガルトク の知事カンチェンネー とラサンハン軍にいたツァン のポラネー らゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て、戦わずして中央チベットから撤退していった。
康熙帝は「グシ・ハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年(1721年)には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封しないまま没し、チベットの戦後統治処理は次代の雍正帝 の手に委ねられることになる。
康熙60年(1721年)、朱一貴 が台湾 の阿里港 (現在の里港郷)で反乱を起こしたが、総兵藍廷珍 とその族弟藍鼎元 を派遣し、翌康熙61年(1722年)に平定した。この年の正月、在位61年の宴会で機嫌よくした康熙帝は大臣たちを私室に招き、機嫌よく思い出話をした。
「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は20、30、40年と在位するとは思わなかった。50の時も60年も在位するとは思いもかけなかった。今はもう61年である。歴史によれば、70歳に達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。私はいつも臣下に寛大にふるまい、大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。こうやって向かい合っている君臣が髪 も髭 も白くなっているとは楽しいことではないか。」
康熙61年11月8日、康熙帝は冷風に当たり高熱を出し、その6日後の11月14日に崩御した。順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵 に陵墓がある。
1691年に国内でキリスト教 を邪教として扱い宣教師 を追放した動きがあったが、この際康熙帝は寛容な態度をとり、「西洋人は我が国の暦法を助け、軍事面においても大砲 を造った。これらの誠心を認め、布教事業の禁止はしない」と1692年に命令を下した。しかし、1704年にローマ教皇が中国に圧力をかけようと派遣した鐸羅 との謁見で中国に対する『禁約文』を出されて態度が変わった。ローマ法王のこのような行為は中国への内政干渉であると立腹し、中国の法律に違反した宣教師らを国外に追放、さらに鐸羅をマカオ に追放するなどとした5 。
北方民族の王者 康熙22年(1683年)からほとんど毎年、康熙帝は夏にはムラン・イ・アバ(muran i aba、木蘭囲場。現在の承徳市 囲場満族モンゴル族自治県 )に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年(1703年)には熱河 に離宮避暑山荘 を造り、毎年夏から秋にかけて北京 を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は、家法として雍正帝 や乾隆帝 にも受け継がれていく。
国内政策 康熙帝は内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明 代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれる。また、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税をたびたび行った。また、丁銀 (人頭税)の額を康熙50年(1711年)の調査で登録された人丁(16歳から59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した(盛世滋生人丁 )。これは地丁銀制 へとつながる。
「黄河の治水」と「漕運の整備」を目的として、六度にわたる「南巡」を熱心に行った。この南巡は、費用のすべてを宮廷が負担するという徹底したものだった。
文字の獄 をはじめたのも彼の代からであり、その政策は子の雍正帝、孫の乾隆帝にも受け継がれた。
后妃と子女 康熙帝の第一子は康熙 6年 (1667) 旧暦9月 (康熙帝が満13歳の年) に生まれて承瑞と名づけられ、第二子・承祐、第三子・承慶ともに名の頭に「承」の字を冠した7 が、しかし、この三子はともに夭折した。「承」の字は不吉だとして、第四子には満洲語 で「賽音察渾」と名づけたが、これもやはり夭折した。第五子は保清と名づけられ、続いて第六子に允礽がうまれ、その下に更に三人 (長華、長生、萬黼) あったが、この三人はまたも夭折し、第五子・保清 と第六子・允礽 のみが成人した。これがのちの大阿哥と二阿哥である (「阿哥age」は満洲語で「皇子」の意8 )。従って、康熙帝の第一皇子 (大阿哥) と第二皇子 (二阿哥) は、それぞれ第五子、第六子ということになる。9
二阿哥・允礽の後に生まれた兄弟は同輩として「胤」で統一されるようになり (三阿哥・胤祉 、四阿哥・胤禛……)、大阿哥・保清ものちに胤禔と改められた。但し、四阿哥・胤禛 (後の雍正帝 ) が践祚すると、「胤」は避諱 の対象となり「允」に改められた。9 なお、便宜上、ここでは大阿哥・胤禔以下をすべて「胤」で統一した。
康熙帝には最終的に35人の子と20人の娘があったが、成人したのは子が24人、娘が8人であった。9 そのうち、九人の皇子がのちに帝位をめぐって暗闘を繰り広げ、それを制して践祚したのが四阿哥・胤禛 (後の雍正帝) である。一連の暗闘は「九子奪嫡 」と呼ばれ、また、当時多くの者が予期しなかった胤禛践祚に関する種々の噂は、民間に「雍正簒位」として拡まった。
正室
側室
ウヤ(烏雅)氏孝恭仁皇后
皇四子・胤禛:後の雍正帝 。
皇六子・胤祚 :夭逝。11
皇七女:夭逝。
皇九女:固倫温憲公主。
皇十二女:夭逝。
皇十四子・胤禵12 13 :乾隆 20年に薨去、諡号・恂勤郡王。11
トゥンギャ(佟佳)氏愨恵皇貴妃 :康熙帝の母方従妹、孝懿仁皇后の妹。
グワルギャ(瓜爾佳)氏惇怡皇貴妃
ジャンギャ(章佳)氏敬敏皇貴妃
皇十三子・胤祥 :雍正8年に薨去、諡号・怡賢親王。11
皇十三女:和碩温恪公主 。
皇十五女:和碩敦恪公主。
ニオフル(鈕祜禄)氏温僖貴妃 :孝昭仁皇后の妹。
皇十子・胤䄉 :康熙48年に敦郡王、雍正2年に剥奪、乾隆2年に輔国公、同6年に卒去。11
皇十一女
王氏順懿密妃
皇十五子・胤禑:雍正9年に薨去、諡号・愉恪郡王。11
皇十六子・胤禄:乾隆32年に薨去、諡号・荘恪親王。11
皇十八子・胤祄:夭逝。
陳氏純裕勤妃
ウラナラ氏 恵妃
承慶:第三子、夭逝。9 11
皇長子・胤禔 :康熙37年に直郡王、同47年に剥奪、雍正12年に卒去。11
ゴロロ(郭絡羅)氏宜妃
皇五子・胤祺 :雍正10年に薨去、諡号・恒温親王。11
皇九子・胤禟 :康熙48年にベイセ、雍正3年に剥奪。11
皇十一子・胤禌:夭逝。11
マギャ(馬佳)氏栄妃
承瑞:第一子。夭逝。9 11
サインチャフン(賽音察渾):第四子、夭逝。9 11
皇三女:固倫栄憲公主。
長華:第七子、夭逝。9 11
長生:第八子、夭逝。9 11
皇三子・胤祉 :雍正10年に薨去、諡号・誠隠親王。11
ワンリュハ(瓦劉哈)氏定妃
皇十二子・胤祹 :乾隆28年に薨去、諡号・履親王。11
ボルジギン (博爾済吉特)氏宣妃
ダイギャ(戴佳)氏成妃
皇七子・胤祐 :雍正8年に薨去、諡号・淳度親王。11
衛氏良妃
皇八子・胤禩 :康熙61年に廉親王、雍正4年に剥奪。11
ヘシェリ氏 平妃 :孝誠仁皇后の妹。
ボルジギン (博爾済吉特)氏慧妃
高氏襄嬪
皇十九子・胤禝:夭逝。
皇十九女:夭逝。
皇二十子・胤禕:乾隆23年に卒去、諡号・簡静ベイレ。11
陳氏熙嬪
皇二十一子・胤禧:乾隆23年に薨去、諡号・慎靖郡王。11 15
セヘトゥ(色赫図)氏謹嬪
皇二十二子・胤祐16 :乾隆8年に卒去、諡号・恭勤ベイレ。11
石氏静嬪
皇二十三子・胤祁:乾隆50年に卒去、諡号・誠郡王。11
陳氏穆嬪
皇二十四子・胤祕:乾隆38年に薨去、諡号・誠親王。11
ウラナラ氏 通嬪
董氏端嬪
ヘシェリ(赫舎里)氏僖嬪
ジョーギャ(兆佳)氏貴人
ゴロロ(郭絡羅)氏貴人:宜妃の妹。
袁氏貴人
ナラ氏 貴人
ナラ氏 貴人
陳氏貴人
張氏庶妃
王氏庶妃
劉氏庶妃
ニオフル(鈕祜禄)氏庶妃
逸話
上述のように 狩猟が得意であり、生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒した逸話が残っている17 。
外見は背格好は中以上、漢人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘 のあとが残っている、目は普通の漢人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる18 。
能力は俊敏で、洞察力や知性、記憶力に優れ、驚くべき天分の広さ、いかなる事件に耐えられる剛毅さを持ち、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており、威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり、大王にふさわしい、と絶賛されている18 。
学問を非常に好み、孔子 の著書の大半やその他にも多くの古典を暗記していた。また、西洋の学問にも深く興味を抱き、幾何学 ・科学 ・天文学 をよく学んだ19 。
フェルディナント・フェルビースト と湯光先 を臨時の会議に呼び出し、中国天文学と西洋天文学のどちらが正しいかを確かめるため訊問し、西洋天文学の正しさを実証させた20 。
呉三桂など多くの漢人の反乱に悩まされたが、不眠不休で連日連夜にわたり会議を行い命令を下した。適切な対応をしたため、数で勝る漢人を懐柔すること成功した21 。
モンゴルの王が反乱を起こそうとすると、すぐさま北京の軍とモンゴルに隣接する遼東省 の軍を合流させた混合軍を送った。モンゴルの王は自軍の情勢も兵力集中も隣国の協力も得られずに敗北し、兄弟と王子が俘虜 となった22 。
飢饉の時に諸省の税を免除して、米倉を解放した。被害の大きい地域には米 と金 を分配した。また、六部 を新築するために北京に集まっていた貧民を使役し、彼らの困窮を救った。中国史で起こりがちであった農民反乱を、こうして未然に防ぐことに成功している23 。
康熙帝は時折巡幸して国民と官吏を視察した、その時、身分の低い者でもそばに行くことができ、彼らに親切で慈愛のある態度を取った。そして官吏に満足しているかを尋ねた24 。
生活は質素であり、食事は普通のもので満足した。また離宮を建設した時、豪勢さを反映するものは見当たらず、質素であった。衣服も豹の毛皮と一般的に用いられるものだった25 。
皇子の教育にも熱心であり、歩き始めるとすぐに馬術・弓術・銃術を教えた。また、皇子たちが過保護 にされるのを好まず、労働・労苦を与えて、粗悪な肉類を食べるように躾けた26 。
明の残党狩りをかわして75歳まで生き延びていた崇禎帝 の第5子である朱慈煥 を捕らえると「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」として凌遅刑 によって処刑。さらにその子と孫を含む一族をことごとく処刑して、明の皇統を根絶やしにしている27 。隠棲していた前王朝の末裔を60年以上も経ってから族滅したことで汚点を残す結果となっている。
登場作品
小説
『鹿鼎記 』:武侠小説。映画・ドラマ化もされている。
テレビドラマ
康熙帝を主人公とするドラマ
康熙帝が登場するドラマ
参考文献
論文
関連文献
岡田英弘『大清帝国隆盛期の実像 第四代康熙帝の手紙から』藤原書店、2016年。上記「康煕帝の手紙」改題再版
『皇帝たちの中国』原書房、1998年。ワック、2006年、新版2022年。第5章「清の聖祖康煕帝」
『イエズス会 士中国書簡集 1 康熙編』矢沢利彦 編訳、平凡社 東洋文庫
長与善郎 『大帝康熙 支那統治の要道』岩波新書 、1938年
脚注