嵆康
嵆 康は、中国三国時代の魏の文人。字は叔夜。豫州譙国銍県(現在の安徽省淮北市濉渓県)の人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。父は嵆昭。兄は嵆喜。子は嵆紹・女子一人。 幼少の頃孤児となり、魏の年末の政治的に不安な時代を生きたが、自由奔放な性格と、魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦め、琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたという。従って老荘を好み、官は中散大夫に至ったが、山濤から役を譲られようとした時、絶交書を送った。
生誕~死没 223年 ~ 262年最終更新 2026/10/16 14:44
嵆 康(けい こう、黄初4年(223年)? - 景元3年(262年)?1)は、中国三国時代の魏の文人。字は叔夜。豫州譙国銍県(現在の安徽省淮北市濉渓県)の人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。父は嵆昭。兄は嵆喜。子は嵆紹・女子一人。
幼少の頃孤児となり、魏の年末の政治的に不安な時代を生きたが、自由奔放な性格と、魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦め、琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたという。従って老荘を好み、官は中散大夫に至ったが、山濤から役を譲られようとした時、絶交書を送った2。
経歴
曹操の曾孫娘の長楽亭主(曹林の孫娘)を妻とし3、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、嵆中散とも呼ばれる。
非凡な才能と風采を持ち、日頃から妄りに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と、清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めなかった。友人の山濤が自分の後任に嵆康を吏部郎に推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『文選』所収)と書いて彼との絶交を申し渡した上で、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前、子の嵆紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものであった。
嵆康の親友であった呂安は、兄の呂巽が自分の妻と私通した事で諍いを起こし、兄を告発しようとした。ところが、身の危険を感じた呂巽によって先に親不孝の罪で訴えられた。この時、嵆康は呂安を弁護しようとした。しかしは以前から嵆康に怨恨があったため、この機会に嵆康と呂安の言動を風俗を乱す行ないだとして、に讒言した。このため、山濤の吏部郎への推薦を断った事と、呂安を弁護する姿勢が罪状に挙げられ、嵆康と呂安は死罪となった。
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