孫賁
孫 賁は、中国後漢末期の武将・政治家。字は伯陽。父は孫羌。叔父は孫堅・孫静。弟は孫輔。従弟は孫策・孫権。子は孫鄰・孫安・孫熙・孫績。娘は曹彰の妻。孫娘は孫寒華。曾孫は孫恵。『三国志』呉志「宗室伝」に伝がある。
生誕~死没 172年 ~ 210年最終更新 2026/10/16 14:51
孫 賁(そん ふん1/そん ほん2、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は伯陽。父は孫羌。叔父は孫堅・孫静。弟は孫輔。従弟は孫策・孫権。子は孫鄰・孫安・孫熙・孫績。娘は曹彰の妻3。孫娘は孫寒華4。曾孫は孫恵5。『三国志』呉志「宗室伝」に伝がある。
生涯
両親は弟が幼い時に亡くなった。孫賁は幼い弟を養育したため、弟思いであると評判になった。後に仕官し、郡の督郵守長まで出世した。
叔父である孫堅の挙兵に参加し、孫堅の戦死後はその軍勢を引き継ぎ、孫堅の棺を故郷に送り届けた。
後に寿春に移った袁術の傘下となった。袁術の命令で九江太守の周昂を攻撃し、陰陵においてこれを撃破した。袁術の上表により、孫賁は豫州刺史に任命されている。
後に丹陽都尉・征虜将軍に任命され、山越の討伐にあたった。劉繇が袁術に敵対すると丹陽を離れ、配下や幕僚を引き連れて歴陽に戻った。
後に袁術の命令で、孫賁は呉景と共に劉繇を攻撃したが、劉繇軍の・の前に苦戦した。がに渡ってくると、その援助により樊能・張英を破り、劉繇を攻撃して豫章に追いやった。孫賁は呉景と共に袁術へ報告するため、孫策により寿春へ戻されている。
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