堀親良
堀 親良は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。信濃飯田藩堀家初代。堀秀政の次男。
生誕~死没 1580年 ~ 1637年7月5日最終更新 2026/10/16 14:55
堀 親良(ほり ちかよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。信濃飯田藩堀家初代。堀秀政の次男。
生涯
小田原征伐のとき、11歳で初陣を飾り、父の死後越前国に2万石を領し、天正19年(1591年)従五位下、美作守に叙任され、秀吉より羽柴氏と豊臣姓を下賜され、秀家の諱を賜る。堀直敬は秀家改名前の諱を「秀成」とするが、親良文書を一覧化した田嶋悠佑は、慶長12年(1607年)に死去した山中長俊宛の書状に秀成の署名が見られることから、同年以前に秀家から秀成へと改名したとする1。
その後、秀治と共に越後国に転封となり、蔵王堂に4万石を領し、うち1万石を家老の近藤重勝に分与した(のち、養子である近藤政成(堀親直の弟)が継承)。秀吉が死去すると、遺品として「助真の刀」を拝領。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与する。「上杉景勝本国にありなから逆謀をくはだて、斎藤・柿崎・丸田等を軍長とし、一揆の党をひきひて会津のさかひ下田村に楯籠、このとき親良みつから軍士をあいしたかへ、いとみたたかひて首級を得、すなはち、上意に達す、」(『寛永諸家系図伝』)とあるように、会津の上杉氏が越後で仕掛けたの鎮圧に奔走する。この功により、、から感状を賜る。感状には羽柴美作守殿とあり、この頃はまだ羽柴を称していた。戦後、家康から所領を安堵された。
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