北燕
- 北燕 - 燕 - - 西燕の位置(416年ごろ)。 - 北燕(ほくえん)は、中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ。 鮮卑化した漢人将軍馮跋が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。首都は黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)。主に遼西地方を領有した。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった。
建国~滅亡 407年 ~ 436年最終更新 2026/10/16 14:44
基本情報
- 建国 ~ 滅亡
- 407年 ~ 436年
北燕
燕
西燕の位置(416年ごろ)。
北燕(ほくえん)は、中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ(407年 - 436年)。
鮮卑化した漢人将軍馮跋が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。首都は黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)。主に遼西地方を領有した。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった。
歴史
建国期
後燕の中衛将軍馮跋は、407年7月に主君であった皇帝慕容熙を殺害して後燕を滅ぼした1。馮跋は後燕の第2代皇帝慕容宝の養子慕容雲を新たな皇帝(天王)に擁立して自らは実権を掌握したが、これが北燕の建国といわれる1。慕容雲は高句麗人の後裔で、天王に即位してからは姓を高氏に戻している1。高雲の即位で高句麗との関係は後燕時代よりかなり好転したが、逆に北魏とは幽州刺史の慕容懿が離反するなどしたため悪化した2。また傀儡として立てていた高雲が409年10月に寵臣の離班や桃仁に殺害されたため、馮跋はこの混乱を鎮定して自ら天王に即位した2。なお、馮跋が即位した時点を北燕の建国とする説もある1。
内訌と北魏との対立
北燕は西の強国北魏からの圧力に苦しめられ、馮跋は東晋と通交し、また当時蒙古平原を支配していた遊牧民のとの間に婚姻関係を、さらにと通交して対抗した。そしてこれを背景に北魏の使者を2回にわたって捕縛する事件を起こしたので、416年からは北魏より侵略を受けるようになる。ただ北魏は当時、西のとも敵対しており大規模な攻勢を北燕にまでかける余裕は無く、両国の間は緊張したまま推移した。しかし北燕内部では馮跋の従兄のや従兄の子のが反乱を起こすなど内紛もあり、北燕の中枢は安定しているとは言い難かった
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最終更新 2026/10/16 14:44 · r210511 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。