許筠
許 筠は、李氏朝鮮時代の文人・政治家・思想家・小説家。本貫は陽川許氏。字は端甫。号は蛟山(こうさん、キョサン、교산)、惺所(せいしょ、ソンソ、성소)、白月居士(はくげつこじ、ペグォルゴサ、백월거사)。ハングルで書かれた最古の小説『洪吉童伝』の作者。
生誕~死没 1569年11月3日 ~ 1618年8月24日最終更新 2026/10/16 14:47
許 筠(きょ いん、ホ・ギュン、허균、1569年 - 1618年)は、李氏朝鮮時代の文人・政治家・思想家・小説家。本貫は陽川許氏。字は端甫。号は蛟山(こうさん、キョサン、교산)、惺所(せいしょ、ソンソ、성소)、白月居士(はくげつこじ、ペグォルゴサ、백월거사)。ハングルで書かれた最古の小説『洪吉童伝』の作者。
一族
陽川許氏は高麗の開国功労者の許宣文の子孫であり、高麗末期の宰相の許珙を始め、当時の朝鮮にも多くの人材を輩出していた名門であった。同時代の同家出身の人物では医学者の許浚がいる。父の許曄(きょ よう、ホ・ヨプ、허엽、1517年 - 1580年)は碩学として名高く、29歳で文科挙に合格し副提学として朝鮮王の側近になった。また東人派(改革派官僚)の領袖として人望を集めた。しかし讒言から罷免され、後に復職したものの慶尚北道の尚州で客死した。
許筬(きょ せい、ホ・ソン、허성)・許篈(きょ ふう、ホ・ボン、허봉)の二人の兄も現代でいえば大臣クラスの官僚として活躍し、許筬は来日したこともある。また姉の許蘭雪軒(きょ らんせつけん、ホ・ナンソロン、허난설헌)は、わずか9歳で詩作を始めたという天才で、儒教道徳に厳しく、女性蔑視の風潮のあった李氏朝鮮時代には珍しい女流詩人である。
生涯
許曄の三男として生まれる。1594年、25歳で科挙に状元及第(首席合格)し官吏となる。春秋館(王朝の歴史を編纂する部署。時の王権も及ばないとされた)の記注官などを歴任し、政治に深く関与した。しかし父を早くに亡くした許筠は母に慈しまれて育ち、才子にありがちな傲岸不遜と軽はずみな言動があったといわれている。そのためか前後6回も罷免と復職を繰り返しているが、その原因の多くが思想問題である。許筠は儒教一辺倒の朝鮮の思想に行き詰まりを感じていた。形骸化しつつあった朱子学を批判し陽明学の「知行合一」を賞賛した。
詩作の師匠である李達は、「三唐詩人」といわれ、李白に匹敵する詩人とまで言われながら庶子出身ゆえに遇されず志を得なかった。また許筠の母親は正妻ではあったが父の継妻であり、兄姉とは母親が異なった。このため李達に深く影響を受け、庶子に対する差別をなくすべきだと公然と主張し、両班の庶子で組織された「」と交際した。西学と呼ばれた西洋の思想に関心を持ち、1610年ごろに使臣として在任中を受け、朝鮮人で最初のとなったといわれている。そのときに家産を投じて4000巻あまりの書籍を購入したが、その中には文芸書のほかに当時禁書のはずの関係の書籍も含まれていた。
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