石世
石 世は、五胡十六国時代の後趙の第4代皇帝。字は元安。父は石虎。母は劉皇后。349年に石虎が死去すると即位したが、わずか在位33日にして異母兄の石遵により退位させられ、すぐに殺害された。
生誕~死没 339年 ~ 349年最終更新 2026/10/16 14:51
石 世(せき せい)は、五胡十六国時代の後趙の第4代皇帝。字は元安。父は石虎。母は劉皇后。349年に石虎が死去すると即位したが、わずか在位33日にして異母兄の石遵により退位させられ、すぐに殺害された。
生涯
339年、大趙天王石虎の子として生まれ、斉公に封じられた。
348年9月、皇太子石宣が誅殺された事に伴い、石虎は群臣と共に誰を新たな皇太子に立てるか議論を行った。太尉張挙は進み出て「燕公斌(石斌)は武略を有し、彭城公遵(石遵)は文徳を有しております。陛下がどちらかを選ばれるとよいかと」と述べると、石虎は「卿の言は正に我が意である」と喜んだ。だが、戎昭将軍張豺は石世の母である劉昭儀と親交が深かったので、石虎が老病である事に付け込み、石世を皇太子に擁立して劉昭儀を皇后に立てる事で、自らが輔政の任に就く事を目論んだ。その為、張豺は石虎へ「燕公の母(斉夫人)は賤しい身分であり、燕公自身もかつて過ちを犯しました。彭城公の母(鄭桜桃)はかつて太子の事で廃されており(最初の皇太子である石邃もまた鄭桜桃の子)、今これを再び立てる事で不和が生じる事を臣は恐れてます。陛下におかれましては、どうかこの事を慎重に考慮下さいますよう」と述べた。さらに張豺は「陛下は二度に渡って皇太子を立てられましたが、彼らの母はいずれも卑しい娼婦に過ぎません。故に禍乱が相次いだのです。今回は母が貴く、自らは孝行な者を選び、これを立てるべきであると存じます」と勧めた。これに石虎は「それは卿の言う事ではない。太子を誰にするかは我が決める」と述べ、張豺を窘めたものの、これによって石世を太子に立てる事を決断した。
その後、石虎は再び群臣を集めて東堂において議論すると、群臣へ向けて「我は三斛の純灰で腸を自ら洗ったが、これによって穢れてしまったからか、専ら悪子ばかり生まれるようになってしまった。みな二十歳を過ぎれば、忽ち父を殺そうとする!今、世(石世)は十歳であるが、二十歳に近づく頃には、我は既に老いてこの世にいないであろう」と述べた。張挙・司空李農は石虎の意を察して議を定め、石世を太子に立てる上書を公卿に出させるよう命じた。これにより石世は皇太子に立てられ、劉昭儀は皇后に立てられた。石虎は太常條枚・光禄勲杜嘏を召し出すと「面倒を掛けるが、卿らを太子の傅とする。まことに改轍する事(皇太子の行いを正す事)を望む。我はこれを両者に託すので、卿らはこの意味をよく理解するように」と述べ、條枚を太傅に、杜嘏を少傅に任じた。
349年4月、石虎は病が篤くなると、大将軍石遵・石斌・鎮衛大将軍張豺に石世の輔政を託した。だが、劉皇后は石斌や石遵が政変を起こすのではないかと恐れ、張豺と共に彼らの排除を目論んだ。そして、石虎の詔を偽作して石斌を誅殺すると、石遵をへ放逐した。さらに劉皇后は詔を矯めて張豺を・都督中外諸軍事・に任じ、の故事に倣うようにした。
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