徳仁 — OpenHistory人物政治・外交
徳仁
徳仁は、日本の第126代天皇。御称号は浩宮、お印は梓。敬称は陛下。勲等は大勲位。 明仁(第125代天皇・上皇)と美智子(上皇后)の第1皇男子。皇后は、雅子。皇女子に愛子内親王(第1子・第1皇女子)、皇弟に秋篠宮文仁親王(皇嗣)、皇妹に黒田清子(清子内親王)がいる。小室眞子、佳子内親王は姪、悠仁親王は甥にあたる。 第二次世界大戦後、かつ日本国憲法及び現皇室典範下の生まれで即位した最初の天皇。元号法並びに「元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)」に基づいて、即位の日に「令和(れいわ)」と改元された。また、学位を所持し、海外留学の経験を有する。
生誕 1960年2月23日最終更新 2026/10/16 15:03
基本情報
- 生誕
- 1960年2月23日
- 大嘗祭
- 大嘗宮の儀, 2019年(令和元年)11月14日・15日, 於 皇居 東御苑大嘗宮
- 諱
- 徳仁(なるひと), 1960年(昭和35年)2月29日命名
- 称号
- 浩宮(ひろのみや)
- 元服
- 1980年(昭和55年)2月23日
- 皇后
- 雅子, (旧姓名:小和田 雅子), 1993年(平成5年)6月9日 結婚
目次
- 1.概要
- 2.来歴
- 2.1.皇孫時代
- 2.2.皇太子時代
- 2.3.天皇時代
- 3.年譜
- 4.皇子女
- 5.系譜
- 5.1.第126代天皇の男系(父系)直系祖先
- 5.2.家系図形式
- 6.国事行為の臨時代行歴
- 7.御発言
- 8.人物
- 8.1.逸話
- 8.2.研究者として
この記事は日本語版ウィキペディアの「徳仁」をもとに作成されており、 (r104160041) CC BY-SA 4.0 ライセンスのもとで利用できます。原文の投稿者一覧は 原文の履歴で確認できます。
最終更新 2026/10/16 15:03 · r273559 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。
概要
1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父・昭和天皇の崩御により、父・皇太子明仁親王(当時)が皇位を継承した。これに伴い皇太子となり、自身が31歳の誕生日を迎えた1991年(平成3年)2月23日には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、政府の用いる正式表記では、「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」(こうたいしなるひとしんのうでんか)、宮内庁を含む日本国政府機関では単に「皇太子殿下」(こうたいしでんか)の呼称が用いられた。
1993年(平成5年)6月9日に小和田雅子(当時)と結婚。成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日に第1皇女子の愛子内親王が誕生した。
即位以前には、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで22回、自身は皇太子として海外訪問の期間または病気療養の期間、父から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った5。
来歴
皇孫時代
1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。身長47センチメートル、体重2,540グラム4。
旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父の昭和天皇が御名を「徳仁(なるひと)」称号を「浩宮(ひろのみや)」と命名した11。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親である皇太子同妃による育児・子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて皇太子同妃が14日間の公務訪米の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。
1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園する。同年11月1日には着袴の儀を行う。両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かずに子育てを行った。ただし、東宮侍従の濱尾実が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた12。両親の下で、弟・文仁親王、妹・清子内親王とともに育つ徳仁親王の様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。
1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了した(文学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。
皇太子時代
1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇の崩御を受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が第1位となり、徳仁親王は皇太子(皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。
父帝の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を父帝から親授された。
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
小和田雅子との成婚までの経緯
こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから、水俣病患者の補償部門として新設されたチッソに派遣され、その後社長に就任したこと、それに伴うメディアスクラムの被害、また雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、一度は親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている17。
また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる18。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた19、元外務事務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に千葉県市川市の宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も『温かくお迎えする』とおっしゃって下さっている20」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。
翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して小和田雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議(議長:宮澤喜一内閣総理大臣/宮澤改造内閣)において「皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚姻」が全員一致で可決され、同日2人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。その他の有力候補には父帝の学友で旧華族の明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後、最も有力といわれた妃の候補には旧皇族で久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね、前年には旧皇族の久邇家も当人も了承し婚約内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった21。
同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK(日本放送協会)が中継放送した「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた22。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。
皇太子妃雅子との成婚以降
成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で第1皇女の愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、外国を度々訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるオックスフォード大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「人格否定発言」)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議(議長:安倍晋三内閣総理大臣)及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、明仁が2019年4月30日を以って退位して上皇となり、皇太子徳仁親王が2019年5月1日に、第126代天皇に即位するという皇位継承の日程が確定された。
天皇時代
2019年(平成31年)4月30日午後12時、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って第125代天皇明仁が退位し、2019年(令和元年)5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が皇位を継承し第126代天皇に即位した。皇太子妃雅子は皇后となった。これに伴い、元号が「平成」から「令和」に改められた。同日、父の先帝・明仁は上皇となり、母の皇后美智子は上皇后となった28。
仁孝天皇以来およそ202年ぶり、かつ、一世一元の制となった明治以降初めて、先帝からの譲位に伴い即位した天皇となった。また、59歳(数え60歳)での即位は、光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目となる高齢での即位である。
なお、皇太子徳仁親王の天皇即位に伴い、「皇太子」は、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日の大正天皇崩御による昭和天皇の即位から1933年(昭和8年)12月23日の父の上皇(継宮明仁親王)の誕生するまで以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて「空位」となった30。代わって、皇弟・秋篠宮文仁親王が皇嗣(皇位継承順位第1位)となった。
5月25日から28日の日程で、アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプ及び夫人メラニア・トランプ(アメリカ合衆国のファーストレディ)が、令和時代初の国賓として訪日した39。天皇徳仁は5月1日の即位後初の国賓として接遇した。5月27日に、徳仁とドナルド・トランプ、雅子とメラニア・トランプが15分ほどの会見を行い、主に父帝の退位と自身の即位、日米の交流、26日の大統領夫妻の相撲観戦など日本文化の3つが話題になった。一方、雅子とメラニアとの間では、子供の教育やスポーツ、大統領夫人が取り組んでいる青少年育成活動に関することなどが話題に上り、外国滞在と外交官としての勤務経験を有する皇后雅子は、通訳を介さず会話した。会見では贈り物の「御贈進品」の交換も行われた。天皇徳仁・皇后雅子は大統領に濃い青色の円すい形の飾り鉢を、メラニア夫人へは金細工を施した飾り箱を、それぞれ贈呈した。大統領夫妻からは徳仁にはウェストバージニア州の楽器職人が1938年に製作したヴィオラが40、雅子には母校であるハーバード大学で伐採した樹木で創作されたペンが、それぞれ贈呈された。贈呈されたヴィオラについて、雅子が「陛下、今夜お弾きになられたら」と話すと、徳仁が笑顔を見せる場面もあった41。また同日に皇居宮殿で行われた、「アメリカ合衆国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐」にて「おことば」を述べた31。
2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた42。
同年11月10日、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」が執り行われた44。
同年11月14日及び15日に、一世一度の宮中祭祀である大嘗祭の中心儀式「大嘗宮の儀」を実施。
同年12月4日、天皇徳仁と皇后雅子は皇居宮中三殿の賢所で、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀「大嘗祭」を終え、皇祖神の天照大神に感謝を込めて神楽を演奏する「賢所御神楽の儀」に臨んだ。同年5月から続いていた即位関連儀式の締めくくりとして行われ、皇嗣秋篠宮文仁親王、同妃紀子をはじめとする皇族も参列した。儀式では神楽の演奏の前に、16時半頃、黄櫨染御袍に身を包んだ徳仁が賢所にて、三種の神器のうち剣璽(剣と勾玉)を捧げ持つ侍従らと共にゆっくりと回廊を進み、拝礼した。続いて、十二単の装束を着用した雅子も拝礼。参列の皇族も賢所の前で拝礼した。これに先立ち、天皇・皇后は同日午前、即位の礼と大嘗祭を終了したことを奉告する「親謁の儀」で宮中三殿に拝礼した。同年5月1日、天皇が皇位継承の証として三種の神器の一部を引き継ぐ「剣璽等承継の儀」から始まった一連の即位関連儀式はこれで全て終了した。
2019年(令和元年)12月26日、同年10月発生の令和元年東日本台風(台風19号)などの被災地を見舞うため、皇后同伴で宮城県と福島県を日帰りで訪問した46。天皇・皇后の被災地訪問は同年5月の即位後、初の機会となった。10人が犠牲となった宮城県伊具郡丸森町にて、阿武隈川の支流が氾濫し、流木や土砂が残る地区を視察した。仮設住宅の集会所では被災者に声をかけ、災害対応に尽力した関係者もねぎらう。福島県本宮市では、決壊した支流の安達太良川堤防の復旧状況を視察した後、台風19号の発災後に避難所として使用されていた保健・福祉施設を訪問し、被災者を気遣う言葉をかけた47。
2020年(令和2年)1月1日、即位後初の正月を迎え、重要な年始の宮中祭祀である四方拝、歳旦祭の儀に臨む48。その後、皇后雅子とともに新年祝賀の儀に臨む48。1月2日、退位後初めて公の場に姿を見せる両親の上皇・上皇后とともに新年一般参賀に臨む48。1月3日、元始祭の儀に臨む48。1月14日に講書始の儀、1月16日に歌会始の儀に他の皇族らとともに臨む48。
同年1月25日、皇后雅子と愛子内親王同伴で両国国技館(東京都墨田区)を訪問し、大相撲初場所14日目の取組を観戦した。徳仁と雅子の大相撲観戦は2017年(平成29年)5月以来で、天皇即位後初の天覧相撲となる。愛子内親王は2007年(平成19年)9月以来の観戦となった49。
同年2月10日、三の丸尚蔵館での御即位記念特別展「令和の御代を迎えて」を皇后雅子同伴で鑑賞48。
同年4月6日、宮内庁は、天皇即位に伴う社会福祉事業への寄付について、政府が創設した「子供の未来応援基金」と、国やボランティア団体の調整役などを担うNPO法人(特定非営利活動法人)「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」に、それぞれ5千万円ずつ行うことを発表した。寄付金は天皇の私的な「お手元金」から拠出され、それぞれ子供の貧困問題関連事業と、被災者支援関連事業に充てられるという。宮内庁の池田憲治次長は同日の定例会見で「天皇皇后両陛下は、子供の貧困問題と、平成時に数多く発生した災害を契機に役割が高まっているボランティアによる被災者支援に対する国民の理解が深まることを願われている」と述べた。日本国憲法第8条では皇室が寄付をする場合、国会の議決が必要と規定、寄付額が年間1800万円を超える場合に適用される。同年3月の第201回国会(常会)参議院本会議で、天皇が4月30日までの間、社会福祉事業へ1億円以内の寄付をすることを可能とする議決案を可決した。父・明仁の即位の際にも、児童福祉と障害者支援の2団体に5千万円ずつ計1億円が寄付された5152。
4月10日、天皇・皇后は住居の赤坂御所に政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長尾身茂を招き、尾身による進講として約1時間半にわたり国内外の感染状況などについて説明を受けた。徳仁は冒頭、医療関係者らに感謝を示した上で、「私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています」と述べた。徳仁・雅子はメモを取りながら、「どうすれば医療崩壊を防げるか」などについて積極的に質問し、「国民が一丸となって乗り越えなければならないですね」などと話した53。
新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大を巡っては、天皇徳仁と皇后雅子は同年3月、愛子内親王の学習院女子高等科卒業に際して公表した文書でも「我が国の国民、そして世界の多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と憂慮していた54。
2021年(令和3年)1月2日に実施予定であった恒例行事である皇居での新年一般参賀は新型コロナウイルス感染拡大により、中止となった。その代わりに1月1日に、国民に向けて天皇徳仁と皇后雅子が国民向けに新年ビデオメッセージを送った55。翌年2022年(令和4年)1月1日も同様に、新年一般参賀中止の代わりに、国民向けに新年ビデオメッセージ(字幕付き)を送った56。
2021年(令和3年)6月24日に、西村泰彦宮内庁長官より(2週間に1度行われる)定例記者会見で、「自身(徳仁)が名誉総裁で開催宣言をする五輪の開催が、新型コロナウイルス感染拡大につながらないかと心配・懸念していると拝察する」旨の発言があった57。
2021年(令和3年)9月20日、天皇一家で引っ越しに伴う荷物の搬送作業が終了したため、一時滞在していた皇居宮殿を出て、皇居御所に入居した。御所は2020年(令和2年)3月、両親の上皇夫妻が仙洞仮御所(東京都港区)に引っ越しした後、2021年6月まで改修工事が行われた。天皇一家は9月6日に旧赤坂御所を出発。皇位とともに受け継がれる剣と璽が御所に納められた後、荷物の搬送作業中は宮殿に滞在していた。宮殿には宿泊設備がないため、寝具などは事前に運び込まれた。側近によると、天皇皇后と愛子内親王は滞在中、御所を訪れて作業に当たる職員らをねぎらったという。旧赤坂御所は仙洞御所となり、改修工事を経て上皇夫妻が移り住んだ59。
2022年(令和4年)9月10日、9月9日午前2時頃(日本時間)のイギリス・英連邦王国女王エリザベス2世の崩御を受け60、徳仁は「エリザベス女王陛下崩御の報に接し、深い悲しみの気持ちと心よりの哀悼の意を表します。女王陛下は70年の長きにわたり英国女王として同国並びに英連邦諸国の国を導き、励まされました。また、世界の平和と安寧を常に願われた、その御姿勢は世界の多くの人々に深い感銘を与えました。女王陛下が残された数多くの御功績と御貢献に心からの敬意と感謝を表明いたします。我が国との関係においても、女王陛下は両国の関係を常に温かく見守ってくださり、英王室と皇室の関係にも御心を寄せてくださいました。私の英国留学や英国訪問に際しても、様々な機会に温かく接していただき、幾多の御配慮をいただいたことに重ねて深く感謝したいと思います。また、女王陛下から私の即位後初めての外国訪問として私と皇后を英国を御招待いただいたことについて、そのお気持ちに皇后とともに心から感謝しております。」との「お気持ち」を発表し、雅子とともに9月9日から11日までの3日間、喪に服した6162。また、9月12日に駐日英国大使館へ別所浩郎侍従長を弔問のため派遣させた63。
同年11月27日、天皇徳仁は前立腺特異抗原(PSA)と呼ばれる前立腺に関する数値にやや懸念される傾向が見られることから、東京都文京区の東京大学医学部附属病院に1泊2日の日程で入院し、前立腺の組織を採取する詳しい検査を受けた。宮内庁は12月2日、採取した組織を詳しく調べた結果、異常は認められなかったとし、これまでの検査で前立腺の肥大が認められ、今後も血液検査を行うなど経過観察を続けると発表した67。
2023年(令和5年)1月20日、皇居東御苑で行われた皇宮警察年頭視閲式を皇后雅子同伴で観覧した。同式典に天皇皇后が出席するのは初めてで、徳仁は1986年(昭和61年)の皇宮警察本部創立100周年を記念した視閲式以来、2度目の出席となった68。
同年10月20日、国会開会式に臨席した際、額賀福志郎衆議院議長が式辞朗読後すぐに退出すべきところを段取りを間違えて、直接天皇に式辞が書かれた紙を手渡そうとしたところ天皇は黙って受け取った。式後に額賀が皇居を訪問して宮内庁長官に陳謝し長官がこれを天皇に奏上したところ、天皇は長官を通じて「誰にでも間違いはあることですから、気にされないように」と伝えた、と報じられた70。
年譜
- 1960年(昭和35年)2月23日16時15分4、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生。父の皇太子明仁親王と母の同妃美智子(いずれも当時)の間の2男1女のうち、第1皇男子(第1子)。
- 1964年(昭和39年)
- 1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学。
- 1972年(昭和47年)4月8日、学習院中等科に入学。
- 1975年(昭和50年)4月7日、学習院高等科に入学。
- 1980年(昭和55年)
- 2月23日(成年:20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)。
- 11月30日、大勲位菊花大綬章を親受。
- 1982年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)。
- 1983年(昭和58年)10月15日、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに入学。
- 1988年(昭和63年)、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了(文学修士)。
- 1989年(昭和64年)1月7日(28歳)、祖父・昭和天皇崩御、日本国憲法及び皇室典範に基づき父の明仁親王(当時)が第125代天皇に践祚したことに伴い、皇太子(皇位継承順位第1位、法定推定相続人)となる。
- 1991年(平成3年)2月23日(31歳)、立太子の礼(宮殿正殿・松の間)。壺切御剣を親授される(宮殿表御座所・鳳凰の間)。
- 1993年(平成5年)
- 2001年(平成13年)12月1日(41歳)、第1皇女子の**敬宮愛子内親王**が誕生。
- 2019年(令和元年)
皇子女
皇后雅子との間に、1女(1人)がいる。明仁(上皇、第125代天皇)の皇孫にあたる。
系譜
第126代天皇の男系(父系)直系祖先
- 代数は『皇統譜』による。
- 北朝は歴代に算入していない。
家系図形式
- 各囲みの一段目は、諱(いみな)/生年-没年/性別 の形式で表記。
- 各囲みの二段目と三段目の下部の数字は即位年と退位年である。
- 年は西暦で記し、「前」は紀元前、「?」は不詳を表す。
- 「(諡)」記号は名称が漢風諡号(かんふうしごう)(生前の行跡に基づいて死後に贈られた名)であることを意味する。
- 「(第~代)」は天皇の代数。
- 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室、皇室の系図一覧を参照。
国事行為の臨時代行歴
2016年(平成28年)1月、昭和天皇在位中に皇孫として1回、天皇明仁(当時)の即位後に皇太子として21回、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。
- 「委任年月日」は、『官報』に掲載された代行開始期日。
- 明仁(上皇、第125代天皇)の訪問国は、「明仁#世界各国訪問歴」を参照。
御発言
- 「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」
- 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」
- 「ニューヨークのティファニーに行ってあれやこれや買うような方では困る」
- 「誰とでも気軽に話が出来る人。人と会った時でも話し合える環境を自然に作り出せる女性。話す時は控えめではあっても、必要な時は自分の意見をしっかり言える女性」
- 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「(自身の結婚相手として)どのような方を妃として望むか」という質問に対して。
- 「人の心情、悩み、苦しみを推し量って、思いやれる人が良い」
- 以上、1986年(昭和61年)、誕生日記者会見でお妃の理想像を聞かれて。
- 「すぐ手の届くところに中世が存在する」
- 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ(1264年創立)について。
- 「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」
- 留学して半年後、昭和58年12月の記者懇談で、英国の女子学生について。
- 「寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」
- 1985年(昭和60年)10月オックスフォード大での留学を終えての感想73。
- 「心から祝福いたします。川嶋紀子さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」
- 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。二人の結婚は私も強く勧めたところです。私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」
- 以上、1989年(平成元年)9月21日、記者会見にて、文仁親王の婚約についての質問に対して74。
- 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」
- 1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて75。
- 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」
- 1992年(平成4年)11月後半に交際中の小和田雅子(当時)にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した76。
- 「外交官としての雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」77
- 2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。いわゆる人格否定発言。
- 「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」78
- 2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、皇室典範改正問題についての質問に対して。
- 「昨年9月の悠仁親王の誕生を心から喜ばしく思います。御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」79
- 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。
- 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」
- 2009年(平成21年)2月20日、誕生日に際する記者会見にて、第125代天皇明仁とその皇后美智子のこれまでの歩みについての質問に対して80。
- 「花園天皇の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀も含めての意味で使われた言葉です。私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
- 2010年(平成22年)2月、誕生日に際する記者会見にて『誡太子書』に言及して81。
- 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者やボランティアの方々など多くの方にお会いしたいと思っています」
- 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連持続可能な開発会議」に言及して82。
- 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」
- 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。
- 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」
- 同記者会見にて、御所での第125代天皇明仁と皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王との懇談についての質問に対して
- 「平成28年8月8日の天皇陛下のおことば以来、これから私が担うこととなる重責について、改めて思いを巡らせる機会も増えてきましたが、その度に、両陛下のこれまでの御苦労と御努力に感謝と尊敬の念を覚えます。また、両陛下から、様々な機会に、多くのお話を伺わせていただいていることも、今後公務に取り組んでいく際の大きな道標となるものであり、大変有り難いことと思っております。
- これからのことを思うと、とても厳粛な気持ちになりますが、引き続き自己研鑽に努めながら、過去の天皇のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います。また、以前も述べたとおり、私が長年携わってきました「水」問題についても、そのことを切り口に、豊かさや防災など、国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。日本の変化に富む豊かな国土は、同時に、自然災害、例えば台風や豪雨、津波などの影響を受けやすいことから、「水」問題への取組で得られた知見も、これからの務めの中で、国民生活の安定と発展を願い、また、防災・減災の重要性を考えていく上で、大切にいかしていきたいと思います。
- 皇室の将来像についての御質問については、男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、また、女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題です。ただ、制度に関わる事項については、私からこの場で言及することは控えたいと思います。
- 皇室の在り方に関しては、国民と心を共にし、苦楽を共にする皇室、ということが基本であり、これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。過去の天皇が歩んでこられた道と、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致し、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けることが大切であるとの考えは、今も変わっておりません。
- 同時に、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。私も、過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。」
- 2019年(平成31年)2月21日、皇太子として迎える最後の誕生日(59歳)に際する記者会見にて(場所:東宮御所)、「(自身が)新天皇として即位するまで残り2か月余りとなり、皇太子としての歩みを振り返るとともに、即位を控えた現在の心境や、新たな時代に臨む決意及び皇室全体で皇族の減少や高齢化が進んでいることを踏まえつつ、どのような皇室の将来像を描こうとしているのか」という質問に対して83
- 「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。」
- 2019年(令和元年)5月1日、「即位後朝見の儀の天皇陛下のおことば」84
- 「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに『即位礼正殿の儀』を行い、即位を内外に宣明いたします。上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」
- 2019年(令和元年)10月22日、「即位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば」85
- 「上皇陛下の御退位を受け、昨年5月に即位して以来、国民の幸せを願いながら日々の務めを果たし、今日まで過ごしてきました。即位関係の諸行事を無事に終えることができ、安堵するとともに、国内外の多くの方々とお会いし、折々に温かい祝福を頂く機会も多かったこの1年は、私にとっても皇后にとっても誠に感慨深いものでした。その一方で、昨年も台風や大雨により、多くの尊い命が失われたことに心が痛みます。寒さも厳しい折、住まいを失い、いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じております。本年は、災害がない1年となることを祈ります。新しい年が、日本と世界の人々にとって幸せな年となることを心より願いつつ、務めを果たしていきたいと考えています。」
- 2020年(令和2年)1月1日、天皇陛下のご感想(新年に当たり)86
- 「御指摘のように、近年は特に変化の激しい時代です。例として挙げられたAI(人工知能)が数年前には今のように話題になっていなかったことや、今では当たり前に使われ、我々の生活を大きく変えているスマートフォンの普及、その一方で、各地で大きな被害をもたらす気候変動による自然災害の脅威が更に深刻になっていることなど、平成の初期と比べても、人々の生活環境は異なってきていると思います。このような変化の激しい時代にあって、社会の変化や時代の移り変わりに応じた形でそれに対応した務めを考え、行動していくことは大切なことであり、その時代の皇室の役割でもあると考えております。そのためにも、多くの人々と触れ合い、直接話を聞く機会を大切にしていきたいと考えています。同時に、先に述べましたとおり、常に国民を思い、国民に寄り添い、象徴としてあるべき姿を模索しながら務めを果たし、今後の活動の方向性についても考えていきたいと思っております。」
- 「即位の年齢については、歴代天皇の中では、より高齢で即位された天皇もおられますが、還暦を迎えるのに当たっては、もう還暦ではなく、まだ還暦という思いでおります。」
- 2020年(令和2年)2月21日、自身の還暦(60歳)のかつ即位後初の誕生日(天皇誕生日:2月23日)に際しての赤坂御所での記者会見での発言抜粋50。
- 「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。」
- 2020年(令和2年)4月10日、尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講時87。
- 「今年の正月は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、残念ながら一般参賀の場で皆さんに直接お話をすることができなくなりました。そこで、今回は、ビデオで新年の御挨拶をしようと思います。(中略)私たち人類は、これまで幾度も恐ろしい疫病や大きな自然災害に見舞われてきました。しかし、その度に、団結力と忍耐をもって、それらの試練を乗り越えてきたものと思います。今、この難局にあって、人々が将来への確固たる希望を胸に、安心して暮らせる日が必ずや遠くない将来に来ることを信じ、皆が互いに思いやりを持って助け合い、支え合いながら、進んで行くことを心から願っています。即位以来、私たちは、皆さんと広く接することを願ってきました。新型コロナウイルス感染症が収まり、再び皆さんと直接お会いできる日を心待ちにしています。そして、今年が、皆さんにとって、希望を持って歩んでいくことのできる年になることを心から願います。ここに、我が国と世界の人々の安寧と幸せ、そして平和を祈ります。」
- 2021年(令和3年)1月1日、皇后雅子同席での新年ビデオメッセージの内容抜粋。
- 「昨年も述べたとおり、皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸せを常に願って、国民と苦楽を共にすることだと思います。そして、時代の移り変わりや社会の変化に応じて、状況に対応した務めを果たしていくことが大切であると思います。皇室を構成する一人一人が、このような役割と真摯に向き合い、国民の幸せを願いながら一つ一つの務めを果たし、国民と心の交流を重ねていく中で、国民と皇室との信頼関係が築かれていくものと考えております。同時に、皇室に関する情報をきちんと伝えていくことも大事なことと考えています。」
- 「週刊誌報道やインターネット上の書き込みについては、人々が自分の意見や考えを自由に表現できる権利は、憲法が保障する基本的人権として、誰もが尊重すべきものですし、人々が自由で多様な意見を述べ合える社会をつくっていくことは大切なことと思います。その中にあって、一般論になりますが、他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要があると思います。他者の置かれた状況にも想像力を働かせ、異なる立場にあったり、異なる考えを持つ人々にも配慮し、尊重し合える寛容な社会が築かれていくことを願っております。」
- 2022年(令和4年)2月21日、自身の62歳の誕生日(2月23日)に際しての皇居・宮殿での記者会見での発言抜粋88。
人物
逸話
- 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。学習院幼稚園時代、自転車をマスターする時にも、倒れて涙を見せても自分の力で立ち上がり自転車を起こしていた。しかし、4歳の時、「なぜ自分には苗字がないのか」と寂しそうに尋ねた。7歳の時には自分の立場を自覚し、一人で歓迎の人達に向かって挨拶をした。「男の子は泣くものではありません」としつけられていたが、弟の秋篠宮文仁親王が誕生しベビーベッドで泣いていたとき「アーヤは赤ちゃんだから泣いてもいいんだよね」と言ってかばった89。
- 趣味は、スポーツと音楽を中心に幅広く、特に日本各地の登山とヴィオラの演奏はしばしば国民の目をひく。登山に関しては、登山専門誌『岳人』や『山と渓谷』などに、幾度かエッセイも寄稿している。このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般の敬語の原則に従い、上皇を「父」、上皇后を「母」と呼んだ。登山のほかにはテニスとジョギングを好む。普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。2007年(平成19年)は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。
- ヴィオラは、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のオーケストラなどで演奏することもある。元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。
- 皇太子になる前には、ファンだったアイドル歌手の柏原芳恵コンサートに赴いたことが話題となった。1986年(昭和61年)10月19日、東京厚生年金会館ホール(新宿区新宿)でのコンサートで、出迎えた柏原がレコードと写真集をプレゼントした。そのお礼に彼女にバラ「プリンセスサヤコ」を贈っており、柏原はそのバラを永久保存している。カラオケで柏原の曲「ハロー・グッバイ」を歌うこともあった。
- 石川さゆりやサザンオールスターズのファンでもあることが理髪を担当していた人物の証言によって明かされている90。
- 学生時代にカラオケで「氷雨」を得意としていた91。学習院大卒業後、オックスフォード大に留学する年に参加した歌会始で叔父の常陸宮正仁親王(父・明仁上皇の皇弟)が「能登島にかかりし虹の消えしあとたちまちにしてまた氷雨ふる」という歌を詠っている92。
- 小学生の頃は読売ジャイアンツのファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。末次利光を贔屓にしており、観戦した1971年の日本シリーズ第4戦で末次が満塁本塁打を放った際には大いに喜んだ93。元は長嶋茂雄のファンであった94が、観戦した1970年の日本シリーズ第3戦で末次が放った三塁打を見てファンになり、自らが着るユニフォームの背番号も長嶋の「3」から末次の「38」に変えたとされる95。1988年(昭和63年)の夏の甲子園の第70回全国高等学校野球選手権大会では開会式後の始球式を務めた96 この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の2009年(平成21年)夏の甲子園の第91回全国高等学校野球選手権大会では開会式に親覧し、おことばを読み上げた。
- 阪神・淡路大震災に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。地震の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。この直前には中東(クウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダン)を訪問中であり、外国訪問を継続する予定であったが、訪問先のヨルダンのフセイン国王の勧めで急遽予定を切り上げ、帰国した。ハーシミーヤ宮殿で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。その後、2010年(平成22年)までに、阪神・淡路大震災被災地訪問を12回行い97、15周年の追悼式典には療養中の妃雅子を伴って夫妻で臨席した98。
研究者として
- 歴史学(交通史、流通史)を専門としたきっかけは、「幼少時、母親の皇太子妃美智子(当時)と共に御用地を散策中に石碑を見つけたことだ」という。のちに「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」について大変興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう」と回想している99。小学生時代、赤坂御用地内にある道の一部がかつての鎌倉時代の古道であったことを知って交通への興味が募り、高学年で松尾芭蕉『奥の細道』を母とともに読破。学習院大学での中世瀬戸内海海運、オックスフォード大学でのテムズ川水運の研究へと発展した100。
- 第5回世界水フォーラムトルコでの開会式では、トルコ語で最後の呼びかけを行い、会場は割れるような拍手に沸いた。一方、基調講演では、弥生時代の唐古・鍵遺跡(奈良県)の環濠集落や、徳川家康が治水上の安全を根本的に向上させるために実施した利根川東遷事業の事例を引いて水問題を歴史の視点から語った。「殿下は水と人との関係を、開催国の歴史と日本の伝統を踏まえて具体的な事例を示して講演されるので、開催国と日本の間に「伝統の継承」という美しい橋を架ける」と尾田栄章(建設省河川局長、世界水フォーラム事務局長ほか)は101、補足解説している。
外国滞在・訪問
公務(国内)
- 1986年(昭和61年)石川県金沢市における全国高校相撲選手権大会で、原稿なしで堂々たるスピーチをしたことで大きな拍手が沸き起こった。「お言葉」を読み上げる以上の熱意を観衆が感じたためと思われる105。
- 沖縄県からの子ども達による記者「豆記者」の受け入れを、平成時代になってからは皇太子徳仁親王と同妃雅子(いずれも当時)が引き継いでおり、毎年8月に東宮御所で会見し、一人一人に声をかけ会話を重ねたという106。
皇族として
- 高円宮家とは、家族ぐるみで親しく交際していた。高円宮憲仁親王は自身とも年齢が近く、徳仁親王にとっては兄のような存在で、結婚後も二人の心の支えとなった。夫妻は結婚当日、赤坂御用地で家族揃って成婚祝賀パレードを終えた二人を迎えた。憲仁親王は「皇太子夫妻の待望の第1子であった愛子内親王の誕生をことのほか喜び、出産時の見舞いに先に妃たちだけが行くことになったのを非常に悔しがった」という。皇太子夫妻が憲仁親王と最後に会えたのは、憲仁親王が薨去する1週間前に愛子内親王を連れて高円宮邸を訪問した時だった107。
- 2006年(平成18年)9月6日、秋篠宮妃紀子が愛育病院で、今上天皇にとっての甥である第3子の悠仁親王を出産した際は、弟の秋篠宮からの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の手術が無事に終わることを祈っています。両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。北海道で公務中だった両親の天皇皇后の還幸(同月9日)と見舞い(同月10日)の後、自らは11日に妃雅子と愛子内親王を伴って一家で見舞いに訪れた。
- 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が、)(自身の祖父母にあたる)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが108、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で羽毛田信吾宮内庁長官(当時)に「天皇皇后両陛下への参内(訪問)の回数が増えていないこと」を指摘された109。その直後の誕生日会見では羽毛田長官の発言に対し、「参内を心がけたい」として、「それ以上の内容は“プライベートな事柄”」として発言を控えた110。
親族
姻族
2000年(平成12年)11月19日、皇太子妃雅子の実妹である小和田礼子の結婚披露宴(東京都文京区)に親覧した。2004年(平成16年)11月19日、祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って東京都目黒区の円融寺に見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子の祖父である江頭豊が死去した際には雅子に同行、東京都新宿区の千日谷会堂の葬儀に親覧している。
栄典・称号
勲章
日本
外国
名誉博士
名誉職
- 日本赤十字社名誉副総裁(1989年〈平成元年〉4月1日 - 2019年〈平成31年〉4月30日)126127128
- 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」名誉総裁(2019年〈令和元年〉7月24日 - 2021年〈令和3年〉9月5日)129130
- 「日デンマーク外交関係樹立150周年」日本側名誉総裁(2017年〈平成29年〉1月1日 - 12月31日)131
- 国際連合事務局「水と衛生に関する諮問委員会」名誉総裁(2007年〈平成19年〉11月1日 - 2015年〈平成27年〉)132
- 「日本・スイス国交樹立150周年」日本側名誉総裁(2014年〈平成26年〉2月1日 - 12月31日)133
- 「日本スペイン交流400周年」日本側名誉総裁(2013年〈平成25年〉6月1日 - 2014年〈平成26年〉7月31日)134
- 「日独交流150周年」日本側名誉総裁(2010年〈平成22年〉10月1日 - 2011年〈平成23年〉12月31日)135
- 「日本メキシコ交流400周年」日本側名誉総裁(2009年〈平成21年〉 - 2010年〈平成22年〉)136
- 「日本ブラジル交流年(日伯交流年)」日本側名誉総裁(2008年〈平成20年〉1月11日 - 12月31日)137
- 2007年ユニバーサル技能五輪国際大会名誉総裁(2007年〈平成19年〉1月18日 - 2007年〈平成19年〉11月21日)138
- 「日本におけるドイツ2005/2006」日本側名誉総裁139
- 2005年日本国際博覧会名誉総裁(2002年〈平成14年〉6月29日 - 2005年〈平成17年〉9月25日)140141
- 「Japan 2001」名誉総裁142143
- 国際花と緑の博覧会名誉総裁(1989年〈平成元年〉 - 1990年〈平成2年〉9月30日)144141
著作
脚注
人物
概要
1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父・昭和天皇の崩御により、父・皇太子明仁親王(当時)が皇位を継承した。これに伴い皇太子となり、自身が31歳の誕生日を迎えた1991年(平成3年)2月23日には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、政府の用いる正式表記では、「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」(こうたいしなるひとしんのうでんか)、宮内庁を含む日本国政府機関では単に「皇太子殿下」(こうたいしでんか)の呼称が用いられた。
1993年(平成5年)6月9日に小和田雅子(当時)と結婚。成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日に第1皇女子の愛子内親王が誕生した。
即位以前には、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで22回、自身は皇太子として海外訪問の期間または病気療養の期間、父から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った5。
来歴
皇孫時代
1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。身長47センチメートル、体重2,540グラム4。
旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父の昭和天皇が御名を「徳仁(なるひと)」称号を「浩宮(ひろのみや)」と命名した11。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親である皇太子同妃による育児・子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて皇太子同妃が14日間の公務訪米の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。
1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園する。同年11月1日には着袴の儀を行う。両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かずに子育てを行った。ただし、東宮侍従の濱尾実が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた12。両親の下で、弟・文仁親王、妹・清子内親王とともに育つ徳仁親王の様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。
1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了した(文学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。
皇太子時代
1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇の崩御を受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が第1位となり、徳仁親王は皇太子(皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。
父帝の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を父帝から親授された。
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
小和田雅子との成婚までの経緯
こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから、水俣病患者の補償部門として新設されたチッソに派遣され、その後社長に就任したこと、それに伴うメディアスクラムの被害、また雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、一度は親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている17。
また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる18。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた19、元外務事務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に千葉県市川市の宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も『温かくお迎えする』とおっしゃって下さっている20」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。
翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して小和田雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議(議長:宮澤喜一内閣総理大臣/宮澤改造内閣)において「皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚姻」が全員一致で可決され、同日2人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。その他の有力候補には父帝の学友で旧華族の明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後、最も有力といわれた妃の候補には旧皇族で久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね、前年には旧皇族の久邇家も当人も了承し婚約内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった21。
同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK(日本放送協会)が中継放送した「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた22。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。
皇太子妃雅子との成婚以降
成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で第1皇女の愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、外国を度々訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるオックスフォード大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「人格否定発言」)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議(議長:安倍晋三内閣総理大臣)及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、明仁が2019年4月30日を以って退位して上皇となり、皇太子徳仁親王が2019年5月1日に、第126代天皇に即位するという皇位継承の日程が確定された。
天皇時代
2019年(平成31年)4月30日午後12時、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って第125代天皇明仁が退位し、2019年(令和元年)5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が皇位を継承し第126代天皇に即位した。皇太子妃雅子は皇后となった。これに伴い、元号が「平成」から「令和」に改められた。同日、父の先帝・明仁は上皇となり、母の皇后美智子は上皇后となった28。
仁孝天皇以来およそ202年ぶり、かつ、一世一元の制となった明治以降初めて、先帝からの譲位に伴い即位した天皇となった。また、59歳(数え60歳)での即位は、光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目となる高齢での即位である。
なお、皇太子徳仁親王の天皇即位に伴い、「皇太子」は、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日の大正天皇崩御による昭和天皇の即位から1933年(昭和8年)12月23日の父の上皇(継宮明仁親王)の誕生するまで以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて「空位」となった30。代わって、皇弟・秋篠宮文仁親王が皇嗣(皇位継承順位第1位)となった。
5月25日から28日の日程で、アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプ及び夫人メラニア・トランプ(アメリカ合衆国のファーストレディ)が、令和時代初の国賓として訪日した39。天皇徳仁は5月1日の即位後初の国賓として接遇した。5月27日に、徳仁とドナルド・トランプ、雅子とメラニア・トランプが15分ほどの会見を行い、主に父帝の退位と自身の即位、日米の交流、26日の大統領夫妻の相撲観戦など日本文化の3つが話題になった。一方、雅子とメラニアとの間では、子供の教育やスポーツ、大統領夫人が取り組んでいる青少年育成活動に関することなどが話題に上り、外国滞在と外交官としての勤務経験を有する皇后雅子は、通訳を介さず会話した。会見では贈り物の「御贈進品」の交換も行われた。天皇徳仁・皇后雅子は大統領に濃い青色の円すい形の飾り鉢を、メラニア夫人へは金細工を施した飾り箱を、それぞれ贈呈した。大統領夫妻からは徳仁にはウェストバージニア州の楽器職人が1938年に製作したヴィオラが40、雅子には母校であるハーバード大学で伐採した樹木で創作されたペンが、それぞれ贈呈された。贈呈されたヴィオラについて、雅子が「陛下、今夜お弾きになられたら」と話すと、徳仁が笑顔を見せる場面もあった41。また同日に皇居宮殿で行われた、「アメリカ合衆国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐」にて「おことば」を述べた31。
2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた42。
同年11月10日、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」が執り行われた44。
同年11月14日及び15日に、一世一度の宮中祭祀である大嘗祭の中心儀式「大嘗宮の儀」を実施。
同年12月4日、天皇徳仁と皇后雅子は皇居宮中三殿の賢所で、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀「大嘗祭」を終え、皇祖神の天照大神に感謝を込めて神楽を演奏する「賢所御神楽の儀」に臨んだ。同年5月から続いていた即位関連儀式の締めくくりとして行われ、皇嗣秋篠宮文仁親王、同妃紀子をはじめとする皇族も参列した。儀式では神楽の演奏の前に、16時半頃、黄櫨染御袍に身を包んだ徳仁が賢所にて、三種の神器のうち剣璽(剣と勾玉)を捧げ持つ侍従らと共にゆっくりと回廊を進み、拝礼した。続いて、十二単の装束を着用した雅子も拝礼。参列の皇族も賢所の前で拝礼した。これに先立ち、天皇・皇后は同日午前、即位の礼と大嘗祭を終了したことを奉告する「親謁の儀」で宮中三殿に拝礼した。同年5月1日、天皇が皇位継承の証として三種の神器の一部を引き継ぐ「剣璽等承継の儀」から始まった一連の即位関連儀式はこれで全て終了した。
2019年(令和元年)12月26日、同年10月発生の令和元年東日本台風(台風19号)などの被災地を見舞うため、皇后同伴で宮城県と福島県を日帰りで訪問した46。天皇・皇后の被災地訪問は同年5月の即位後、初の機会となった。10人が犠牲となった宮城県伊具郡丸森町にて、阿武隈川の支流が氾濫し、流木や土砂が残る地区を視察した。仮設住宅の集会所では被災者に声をかけ、災害対応に尽力した関係者もねぎらう。福島県本宮市では、決壊した支流の安達太良川堤防の復旧状況を視察した後、台風19号の発災後に避難所として使用されていた保健・福祉施設を訪問し、被災者を気遣う言葉をかけた47。
2020年(令和2年)1月1日、即位後初の正月を迎え、重要な年始の宮中祭祀である四方拝、歳旦祭の儀に臨む48。その後、皇后雅子とともに新年祝賀の儀に臨む48。1月2日、退位後初めて公の場に姿を見せる両親の上皇・上皇后とともに新年一般参賀に臨む48。1月3日、元始祭の儀に臨む48。1月14日に講書始の儀、1月16日に歌会始の儀に他の皇族らとともに臨む48。
同年1月25日、皇后雅子と愛子内親王同伴で両国国技館(東京都墨田区)を訪問し、大相撲初場所14日目の取組を観戦した。徳仁と雅子の大相撲観戦は2017年(平成29年)5月以来で、天皇即位後初の天覧相撲となる。愛子内親王は2007年(平成19年)9月以来の観戦となった49。
同年2月10日、三の丸尚蔵館での御即位記念特別展「令和の御代を迎えて」を皇后雅子同伴で鑑賞48。
同年4月6日、宮内庁は、天皇即位に伴う社会福祉事業への寄付について、政府が創設した「子供の未来応援基金」と、国やボランティア団体の調整役などを担うNPO法人(特定非営利活動法人)「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」に、それぞれ5千万円ずつ行うことを発表した。寄付金は天皇の私的な「お手元金」から拠出され、それぞれ子供の貧困問題関連事業と、被災者支援関連事業に充てられるという。宮内庁の池田憲治次長は同日の定例会見で「天皇皇后両陛下は、子供の貧困問題と、平成時に数多く発生した災害を契機に役割が高まっているボランティアによる被災者支援に対する国民の理解が深まることを願われている」と述べた。日本国憲法第8条では皇室が寄付をする場合、国会の議決が必要と規定、寄付額が年間1800万円を超える場合に適用される。同年3月の第201回国会(常会)参議院本会議で、天皇が4月30日までの間、社会福祉事業へ1億円以内の寄付をすることを可能とする議決案を可決した。父・明仁の即位の際にも、児童福祉と障害者支援の2団体に5千万円ずつ計1億円が寄付された5152。
4月10日、天皇・皇后は住居の赤坂御所に政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長尾身茂を招き、尾身による進講として約1時間半にわたり国内外の感染状況などについて説明を受けた。徳仁は冒頭、医療関係者らに感謝を示した上で、「私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています」と述べた。徳仁・雅子はメモを取りながら、「どうすれば医療崩壊を防げるか」などについて積極的に質問し、「国民が一丸となって乗り越えなければならないですね」などと話した53。
新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大を巡っては、天皇徳仁と皇后雅子は同年3月、愛子内親王の学習院女子高等科卒業に際して公表した文書でも「我が国の国民、そして世界の多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と憂慮していた54。
2021年(令和3年)1月2日に実施予定であった恒例行事である皇居での新年一般参賀は新型コロナウイルス感染拡大により、中止となった。その代わりに1月1日に、国民に向けて天皇徳仁と皇后雅子が国民向けに新年ビデオメッセージを送った55。翌年2022年(令和4年)1月1日も同様に、新年一般参賀中止の代わりに、国民向けに新年ビデオメッセージ(字幕付き)を送った56。
2021年(令和3年)6月24日に、西村泰彦宮内庁長官より(2週間に1度行われる)定例記者会見で、「自身(徳仁)が名誉総裁で開催宣言をする五輪の開催が、新型コロナウイルス感染拡大につながらないかと心配・懸念していると拝察する」旨の発言があった57。
2021年(令和3年)9月20日、天皇一家で引っ越しに伴う荷物の搬送作業が終了したため、一時滞在していた皇居宮殿を出て、皇居御所に入居した。御所は2020年(令和2年)3月、両親の上皇夫妻が仙洞仮御所(東京都港区)に引っ越しした後、2021年6月まで改修工事が行われた。天皇一家は9月6日に旧赤坂御所を出発。皇位とともに受け継がれる剣と璽が御所に納められた後、荷物の搬送作業中は宮殿に滞在していた。宮殿には宿泊設備がないため、寝具などは事前に運び込まれた。側近によると、天皇皇后と愛子内親王は滞在中、御所を訪れて作業に当たる職員らをねぎらったという。旧赤坂御所は仙洞御所となり、改修工事を経て上皇夫妻が移り住んだ59。
2022年(令和4年)9月10日、9月9日午前2時頃(日本時間)のイギリス・英連邦王国女王エリザベス2世の崩御を受け60、徳仁は「エリザベス女王陛下崩御の報に接し、深い悲しみの気持ちと心よりの哀悼の意を表します。女王陛下は70年の長きにわたり英国女王として同国並びに英連邦諸国の国を導き、励まされました。また、世界の平和と安寧を常に願われた、その御姿勢は世界の多くの人々に深い感銘を与えました。女王陛下が残された数多くの御功績と御貢献に心からの敬意と感謝を表明いたします。我が国との関係においても、女王陛下は両国の関係を常に温かく見守ってくださり、英王室と皇室の関係にも御心を寄せてくださいました。私の英国留学や英国訪問に際しても、様々な機会に温かく接していただき、幾多の御配慮をいただいたことに重ねて深く感謝したいと思います。また、女王陛下から私の即位後初めての外国訪問として私と皇后を英国を御招待いただいたことについて、そのお気持ちに皇后とともに心から感謝しております。」との「お気持ち」を発表し、雅子とともに9月9日から11日までの3日間、喪に服した6162。また、9月12日に駐日英国大使館へ別所浩郎侍従長を弔問のため派遣させた63。
同年11月27日、天皇徳仁は前立腺特異抗原(PSA)と呼ばれる前立腺に関する数値にやや懸念される傾向が見られることから、東京都文京区の東京大学医学部附属病院に1泊2日の日程で入院し、前立腺の組織を採取する詳しい検査を受けた。宮内庁は12月2日、採取した組織を詳しく調べた結果、異常は認められなかったとし、これまでの検査で前立腺の肥大が認められ、今後も血液検査を行うなど経過観察を続けると発表した67。
2023年(令和5年)1月20日、皇居東御苑で行われた皇宮警察年頭視閲式を皇后雅子同伴で観覧した。同式典に天皇皇后が出席するのは初めてで、徳仁は1986年(昭和61年)の皇宮警察本部創立100周年を記念した視閲式以来、2度目の出席となった68。
同年10月20日、国会開会式に臨席した際、額賀福志郎衆議院議長が式辞朗読後すぐに退出すべきところを段取りを間違えて、直接天皇に式辞が書かれた紙を手渡そうとしたところ天皇は黙って受け取った。式後に額賀が皇居を訪問して宮内庁長官に陳謝し長官がこれを天皇に奏上したところ、天皇は長官を通じて「誰にでも間違いはあることですから、気にされないように」と伝えた、と報じられた70。
年譜
- 1960年(昭和35年)2月23日16時15分4、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生。父の皇太子明仁親王と母の同妃美智子(いずれも当時)の間の2男1女のうち、第1皇男子(第1子)。
- 1964年(昭和39年)
- 1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学。
- 1972年(昭和47年)4月8日、学習院中等科に入学。
- 1975年(昭和50年)4月7日、学習院高等科に入学。
- 1980年(昭和55年)
- 2月23日(成年:20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)。
- 11月30日、大勲位菊花大綬章を親受。
- 1982年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)。
- 1983年(昭和58年)10月15日、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに入学。
- 1988年(昭和63年)、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了(文学修士)。
- 1989年(昭和64年)1月7日(28歳)、祖父・昭和天皇崩御、日本国憲法及び皇室典範に基づき父の明仁親王(当時)が第125代天皇に践祚したことに伴い、皇太子(皇位継承順位第1位、法定推定相続人)となる。
- 1991年(平成3年)2月23日(31歳)、立太子の礼(宮殿正殿・松の間)。壺切御剣を親授される(宮殿表御座所・鳳凰の間)。
- 1993年(平成5年)
- 2001年(平成13年)12月1日(41歳)、第1皇女子の**敬宮愛子内親王**が誕生。
- 2019年(令和元年)
皇子女
皇后雅子との間に、1女(1人)がいる。明仁(上皇、第125代天皇)の皇孫にあたる。
系譜
第126代天皇の男系(父系)直系祖先
- 代数は『皇統譜』による。
- 北朝は歴代に算入していない。
家系図形式
- 各囲みの一段目は、諱(いみな)/生年-没年/性別 の形式で表記。
- 各囲みの二段目と三段目の下部の数字は即位年と退位年である。
- 年は西暦で記し、「前」は紀元前、「?」は不詳を表す。
- 「(諡)」記号は名称が漢風諡号(かんふうしごう)(生前の行跡に基づいて死後に贈られた名)であることを意味する。
- 「(第~代)」は天皇の代数。
- 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室、皇室の系図一覧を参照。
国事行為の臨時代行歴
2016年(平成28年)1月、昭和天皇在位中に皇孫として1回、天皇明仁(当時)の即位後に皇太子として21回、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。
- 「委任年月日」は、『官報』に掲載された代行開始期日。
- 明仁(上皇、第125代天皇)の訪問国は、「明仁#世界各国訪問歴」を参照。
御発言
- 「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」
- 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」
- 「ニューヨークのティファニーに行ってあれやこれや買うような方では困る」
- 「誰とでも気軽に話が出来る人。人と会った時でも話し合える環境を自然に作り出せる女性。話す時は控えめではあっても、必要な時は自分の意見をしっかり言える女性」
- 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「(自身の結婚相手として)どのような方を妃として望むか」という質問に対して。
- 「人の心情、悩み、苦しみを推し量って、思いやれる人が良い」
- 以上、1986年(昭和61年)、誕生日記者会見でお妃の理想像を聞かれて。
- 「すぐ手の届くところに中世が存在する」
- 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ(1264年創立)について。
- 「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」
- 留学して半年後、昭和58年12月の記者懇談で、英国の女子学生について。
- 「寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」
- 1985年(昭和60年)10月オックスフォード大での留学を終えての感想73。
- 「心から祝福いたします。川嶋紀子さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」
- 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。二人の結婚は私も強く勧めたところです。私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」
- 以上、1989年(平成元年)9月21日、記者会見にて、文仁親王の婚約についての質問に対して74。
- 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」
- 1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて75。
- 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」
- 1992年(平成4年)11月後半に交際中の小和田雅子(当時)にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した76。
- 「外交官としての雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」77
- 2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。いわゆる人格否定発言。
- 「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」78
- 2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、皇室典範改正問題についての質問に対して。
- 「昨年9月の悠仁親王の誕生を心から喜ばしく思います。御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」79
- 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。
- 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」
- 2009年(平成21年)2月20日、誕生日に際する記者会見にて、第125代天皇明仁とその皇后美智子のこれまでの歩みについての質問に対して80。
- 「花園天皇の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀も含めての意味で使われた言葉です。私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
- 2010年(平成22年)2月、誕生日に際する記者会見にて『誡太子書』に言及して81。
- 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者やボランティアの方々など多くの方にお会いしたいと思っています」
- 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連持続可能な開発会議」に言及して82。
- 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」
- 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。
- 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」
- 同記者会見にて、御所での第125代天皇明仁と皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王との懇談についての質問に対して
- 「平成28年8月8日の天皇陛下のおことば以来、これから私が担うこととなる重責について、改めて思いを巡らせる機会も増えてきましたが、その度に、両陛下のこれまでの御苦労と御努力に感謝と尊敬の念を覚えます。また、両陛下から、様々な機会に、多くのお話を伺わせていただいていることも、今後公務に取り組んでいく際の大きな道標となるものであり、大変有り難いことと思っております。
- これからのことを思うと、とても厳粛な気持ちになりますが、引き続き自己研鑽に努めながら、過去の天皇のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います。また、以前も述べたとおり、私が長年携わってきました「水」問題についても、そのことを切り口に、豊かさや防災など、国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。日本の変化に富む豊かな国土は、同時に、自然災害、例えば台風や豪雨、津波などの影響を受けやすいことから、「水」問題への取組で得られた知見も、これからの務めの中で、国民生活の安定と発展を願い、また、防災・減災の重要性を考えていく上で、大切にいかしていきたいと思います。
- 皇室の将来像についての御質問については、男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、また、女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題です。ただ、制度に関わる事項については、私からこの場で言及することは控えたいと思います。
- 皇室の在り方に関しては、国民と心を共にし、苦楽を共にする皇室、ということが基本であり、これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。過去の天皇が歩んでこられた道と、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致し、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けることが大切であるとの考えは、今も変わっておりません。
- 同時に、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。私も、過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。」
- 2019年(平成31年)2月21日、皇太子として迎える最後の誕生日(59歳)に際する記者会見にて(場所:東宮御所)、「(自身が)新天皇として即位するまで残り2か月余りとなり、皇太子としての歩みを振り返るとともに、即位を控えた現在の心境や、新たな時代に臨む決意及び皇室全体で皇族の減少や高齢化が進んでいることを踏まえつつ、どのような皇室の将来像を描こうとしているのか」という質問に対して83
- 「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。」
- 2019年(令和元年)5月1日、「即位後朝見の儀の天皇陛下のおことば」84
- 「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに『即位礼正殿の儀』を行い、即位を内外に宣明いたします。上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」
- 2019年(令和元年)10月22日、「即位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば」85
- 「上皇陛下の御退位を受け、昨年5月に即位して以来、国民の幸せを願いながら日々の務めを果たし、今日まで過ごしてきました。即位関係の諸行事を無事に終えることができ、安堵するとともに、国内外の多くの方々とお会いし、折々に温かい祝福を頂く機会も多かったこの1年は、私にとっても皇后にとっても誠に感慨深いものでした。その一方で、昨年も台風や大雨により、多くの尊い命が失われたことに心が痛みます。寒さも厳しい折、住まいを失い、いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じております。本年は、災害がない1年となることを祈ります。新しい年が、日本と世界の人々にとって幸せな年となることを心より願いつつ、務めを果たしていきたいと考えています。」
- 2020年(令和2年)1月1日、天皇陛下のご感想(新年に当たり)86
- 「御指摘のように、近年は特に変化の激しい時代です。例として挙げられたAI(人工知能)が数年前には今のように話題になっていなかったことや、今では当たり前に使われ、我々の生活を大きく変えているスマートフォンの普及、その一方で、各地で大きな被害をもたらす気候変動による自然災害の脅威が更に深刻になっていることなど、平成の初期と比べても、人々の生活環境は異なってきていると思います。このような変化の激しい時代にあって、社会の変化や時代の移り変わりに応じた形でそれに対応した務めを考え、行動していくことは大切なことであり、その時代の皇室の役割でもあると考えております。そのためにも、多くの人々と触れ合い、直接話を聞く機会を大切にしていきたいと考えています。同時に、先に述べましたとおり、常に国民を思い、国民に寄り添い、象徴としてあるべき姿を模索しながら務めを果たし、今後の活動の方向性についても考えていきたいと思っております。」
- 「即位の年齢については、歴代天皇の中では、より高齢で即位された天皇もおられますが、還暦を迎えるのに当たっては、もう還暦ではなく、まだ還暦という思いでおります。」
- 2020年(令和2年)2月21日、自身の還暦(60歳)のかつ即位後初の誕生日(天皇誕生日:2月23日)に際しての赤坂御所での記者会見での発言抜粋50。
- 「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。」
- 2020年(令和2年)4月10日、尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講時87。
- 「今年の正月は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、残念ながら一般参賀の場で皆さんに直接お話をすることができなくなりました。そこで、今回は、ビデオで新年の御挨拶をしようと思います。(中略)私たち人類は、これまで幾度も恐ろしい疫病や大きな自然災害に見舞われてきました。しかし、その度に、団結力と忍耐をもって、それらの試練を乗り越えてきたものと思います。今、この難局にあって、人々が将来への確固たる希望を胸に、安心して暮らせる日が必ずや遠くない将来に来ることを信じ、皆が互いに思いやりを持って助け合い、支え合いながら、進んで行くことを心から願っています。即位以来、私たちは、皆さんと広く接することを願ってきました。新型コロナウイルス感染症が収まり、再び皆さんと直接お会いできる日を心待ちにしています。そして、今年が、皆さんにとって、希望を持って歩んでいくことのできる年になることを心から願います。ここに、我が国と世界の人々の安寧と幸せ、そして平和を祈ります。」
- 2021年(令和3年)1月1日、皇后雅子同席での新年ビデオメッセージの内容抜粋。
- 「昨年も述べたとおり、皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸せを常に願って、国民と苦楽を共にすることだと思います。そして、時代の移り変わりや社会の変化に応じて、状況に対応した務めを果たしていくことが大切であると思います。皇室を構成する一人一人が、このような役割と真摯に向き合い、国民の幸せを願いながら一つ一つの務めを果たし、国民と心の交流を重ねていく中で、国民と皇室との信頼関係が築かれていくものと考えております。同時に、皇室に関する情報をきちんと伝えていくことも大事なことと考えています。」
- 「週刊誌報道やインターネット上の書き込みについては、人々が自分の意見や考えを自由に表現できる権利は、憲法が保障する基本的人権として、誰もが尊重すべきものですし、人々が自由で多様な意見を述べ合える社会をつくっていくことは大切なことと思います。その中にあって、一般論になりますが、他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要があると思います。他者の置かれた状況にも想像力を働かせ、異なる立場にあったり、異なる考えを持つ人々にも配慮し、尊重し合える寛容な社会が築かれていくことを願っております。」
- 2022年(令和4年)2月21日、自身の62歳の誕生日(2月23日)に際しての皇居・宮殿での記者会見での発言抜粋88。
人物
逸話
- 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。学習院幼稚園時代、自転車をマスターする時にも、倒れて涙を見せても自分の力で立ち上がり自転車を起こしていた。しかし、4歳の時、「なぜ自分には苗字がないのか」と寂しそうに尋ねた。7歳の時には自分の立場を自覚し、一人で歓迎の人達に向かって挨拶をした。「男の子は泣くものではありません」としつけられていたが、弟の秋篠宮文仁親王が誕生しベビーベッドで泣いていたとき「アーヤは赤ちゃんだから泣いてもいいんだよね」と言ってかばった89。
- 趣味は、スポーツと音楽を中心に幅広く、特に日本各地の登山とヴィオラの演奏はしばしば国民の目をひく。登山に関しては、登山専門誌『岳人』や『山と渓谷』などに、幾度かエッセイも寄稿している。このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般の敬語の原則に従い、上皇を「父」、上皇后を「母」と呼んだ。登山のほかにはテニスとジョギングを好む。普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。2007年(平成19年)は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。
- ヴィオラは、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のオーケストラなどで演奏することもある。元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。
- 皇太子になる前には、ファンだったアイドル歌手の柏原芳恵コンサートに赴いたことが話題となった。1986年(昭和61年)10月19日、東京厚生年金会館ホール(新宿区新宿)でのコンサートで、出迎えた柏原がレコードと写真集をプレゼントした。そのお礼に彼女にバラ「プリンセスサヤコ」を贈っており、柏原はそのバラを永久保存している。カラオケで柏原の曲「ハロー・グッバイ」を歌うこともあった。
- 石川さゆりやサザンオールスターズのファンでもあることが理髪を担当していた人物の証言によって明かされている90。
- 学生時代にカラオケで「氷雨」を得意としていた91。学習院大卒業後、オックスフォード大に留学する年に参加した歌会始で叔父の常陸宮正仁親王(父・明仁上皇の皇弟)が「能登島にかかりし虹の消えしあとたちまちにしてまた氷雨ふる」という歌を詠っている92。
- 小学生の頃は読売ジャイアンツのファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。末次利光を贔屓にしており、観戦した1971年の日本シリーズ第4戦で末次が満塁本塁打を放った際には大いに喜んだ93。元は長嶋茂雄のファンであった94が、観戦した1970年の日本シリーズ第3戦で末次が放った三塁打を見てファンになり、自らが着るユニフォームの背番号も長嶋の「3」から末次の「38」に変えたとされる95。1988年(昭和63年)の夏の甲子園の第70回全国高等学校野球選手権大会では開会式後の始球式を務めた96 この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の2009年(平成21年)夏の甲子園の第91回全国高等学校野球選手権大会では開会式に親覧し、おことばを読み上げた。
- 阪神・淡路大震災に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。地震の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。この直前には中東(クウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダン)を訪問中であり、外国訪問を継続する予定であったが、訪問先のヨルダンのフセイン国王の勧めで急遽予定を切り上げ、帰国した。ハーシミーヤ宮殿で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。その後、2010年(平成22年)までに、阪神・淡路大震災被災地訪問を12回行い97、15周年の追悼式典には療養中の妃雅子を伴って夫妻で臨席した98。
研究者として
- 歴史学(交通史、流通史)を専門としたきっかけは、「幼少時、母親の皇太子妃美智子(当時)と共に御用地を散策中に石碑を見つけたことだ」という。のちに「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」について大変興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう」と回想している99。小学生時代、赤坂御用地内にある道の一部がかつての鎌倉時代の古道であったことを知って交通への興味が募り、高学年で松尾芭蕉『奥の細道』を母とともに読破。学習院大学での中世瀬戸内海海運、オックスフォード大学でのテムズ川水運の研究へと発展した100。
- 第5回世界水フォーラムトルコでの開会式では、トルコ語で最後の呼びかけを行い、会場は割れるような拍手に沸いた。一方、基調講演では、弥生時代の唐古・鍵遺跡(奈良県)の環濠集落や、徳川家康が治水上の安全を根本的に向上させるために実施した利根川東遷事業の事例を引いて水問題を歴史の視点から語った。「殿下は水と人との関係を、開催国の歴史と日本の伝統を踏まえて具体的な事例を示して講演されるので、開催国と日本の間に「伝統の継承」という美しい橋を架ける」と尾田栄章(建設省河川局長、世界水フォーラム事務局長ほか)は101、補足解説している。
外国滞在・訪問
公務(国内)
- 1986年(昭和61年)石川県金沢市における全国高校相撲選手権大会で、原稿なしで堂々たるスピーチをしたことで大きな拍手が沸き起こった。「お言葉」を読み上げる以上の熱意を観衆が感じたためと思われる105。
- 沖縄県からの子ども達による記者「豆記者」の受け入れを、平成時代になってからは皇太子徳仁親王と同妃雅子(いずれも当時)が引き継いでおり、毎年8月に東宮御所で会見し、一人一人に声をかけ会話を重ねたという106。
皇族として
- 高円宮家とは、家族ぐるみで親しく交際していた。高円宮憲仁親王は自身とも年齢が近く、徳仁親王にとっては兄のような存在で、結婚後も二人の心の支えとなった。夫妻は結婚当日、赤坂御用地で家族揃って成婚祝賀パレードを終えた二人を迎えた。憲仁親王は「皇太子夫妻の待望の第1子であった愛子内親王の誕生をことのほか喜び、出産時の見舞いに先に妃たちだけが行くことになったのを非常に悔しがった」という。皇太子夫妻が憲仁親王と最後に会えたのは、憲仁親王が薨去する1週間前に愛子内親王を連れて高円宮邸を訪問した時だった107。
- 2006年(平成18年)9月6日、秋篠宮妃紀子が愛育病院で、今上天皇にとっての甥である第3子の悠仁親王を出産した際は、弟の秋篠宮からの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の手術が無事に終わることを祈っています。両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。北海道で公務中だった両親の天皇皇后の還幸(同月9日)と見舞い(同月10日)の後、自らは11日に妃雅子と愛子内親王を伴って一家で見舞いに訪れた。
- 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が、)(自身の祖父母にあたる)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが108、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で羽毛田信吾宮内庁長官(当時)に「天皇皇后両陛下への参内(訪問)の回数が増えていないこと」を指摘された109。その直後の誕生日会見では羽毛田長官の発言に対し、「参内を心がけたい」として、「それ以上の内容は“プライベートな事柄”」として発言を控えた110。
親族
姻族
2000年(平成12年)11月19日、皇太子妃雅子の実妹である小和田礼子の結婚披露宴(東京都文京区)に親覧した。2004年(平成16年)11月19日、祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って東京都目黒区の円融寺に見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子の祖父である江頭豊が死去した際には雅子に同行、東京都新宿区の千日谷会堂の葬儀に親覧している。
栄典・称号
勲章
日本
外国
名誉博士
名誉職
- 日本赤十字社名誉副総裁(1989年〈平成元年〉4月1日 - 2019年〈平成31年〉4月30日)126127128
- 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」名誉総裁(2019年〈令和元年〉7月24日 - 2021年〈令和3年〉9月5日)129130
- 「日デンマーク外交関係樹立150周年」日本側名誉総裁(2017年〈平成29年〉1月1日 - 12月31日)131
- 国際連合事務局「水と衛生に関する諮問委員会」名誉総裁(2007年〈平成19年〉11月1日 - 2015年〈平成27年〉)132
- 「日本・スイス国交樹立150周年」日本側名誉総裁(2014年〈平成26年〉2月1日 - 12月31日)133
- 「日本スペイン交流400周年」日本側名誉総裁(2013年〈平成25年〉6月1日 - 2014年〈平成26年〉7月31日)134
- 「日独交流150周年」日本側名誉総裁(2010年〈平成22年〉10月1日 - 2011年〈平成23年〉12月31日)135
- 「日本メキシコ交流400周年」日本側名誉総裁(2009年〈平成21年〉 - 2010年〈平成22年〉)136
- 「日本ブラジル交流年(日伯交流年)」日本側名誉総裁(2008年〈平成20年〉1月11日 - 12月31日)137
- 2007年ユニバーサル技能五輪国際大会名誉総裁(2007年〈平成19年〉1月18日 - 2007年〈平成19年〉11月21日)138
- 「日本におけるドイツ2005/2006」日本側名誉総裁139
- 2005年日本国際博覧会名誉総裁(2002年〈平成14年〉6月29日 - 2005年〈平成17年〉9月25日)140141
- 「Japan 2001」名誉総裁142143
- 国際花と緑の博覧会名誉総裁(1989年〈平成元年〉 - 1990年〈平成2年〉9月30日)144141
著作
脚注
過去30日の閲覧 0回
下位記事
この記事に属する個別の出来事や下位の話題を、別の記事として作成できます。
+ 下位記事を作成