伏寿
伏 寿は、後漢最後の皇帝献帝の皇后(廃后)。徐州琅邪郡東武県(現在の山東省濰坊市諸城市)の出身。前漢の伏湛の末裔。父は伏完。生母は盈(姓は不明)。嫡母は劉華(桓帝の娘の陽安公主)。兄は伏徳・伏典ら。姉妹が5人いる。
生誕~死没 年不詳 ~ 214年最終更新 2026/10/16 14:53
伏 寿(ふく じゅ)は、後漢最後の皇帝献帝の皇后(廃后)。徐州琅邪郡東武県(現在の山東省濰坊市諸城市)の出身。前漢の伏湛の末裔。父は伏完。生母は盈(姓は不明)。嫡母は劉華(桓帝の娘の陽安公主)。兄は伏徳・伏典ら。姉妹が5人いる。
生涯
初平元年(190年)、董卓が献帝を連れ長安に遷った時、貴人(側室)となった。
興平2年(195年)には皇后に立てられた。同年、献帝は洛陽帰還を敢行したが、李傕・郭汜らの追撃を受け、曹陽での戦闘において多数の犠牲者を出した。献帝が夜陰に乗じて黄河を渡ったため、後宮の者たちもそれに従った。このとき伏寿は絹数匹を所持していた。しかし董承は符節令(割符を司る役人)の孫徽を派遣し、剣で脅してこれを奪わせたという。伏寿が安邑に到着した時には衣服は所々で擦り切れ破れており、また粟や棗を食べて飢えを凌がなければいけない有様だった。生き延びた後宮の女性は伏寿と宋都のふたりだけだったという1。
建安元年(196年)、献帝は洛陽に到着し宮廷を再興したが、街並みには往時の面影はなく廃墟と化しており、皆飢餓に苦しんだ。その後、曹操が献帝を許に遷した。献帝を奉戴して以降、曹操は諸侯に号令をかけるようになった。また曹操は宮廷での実権をも掌握し、献帝の周りに仕える者らも皆自らの息のかかったものばかりに、揃え代えてしまった。このため議郎のなど、献帝に処世術を献策する者も現れた。しかし、曹操はこれを憎み皆殺害した。また彼のように、内外で曹操によって排除抹殺された者も多数に昇ったという。さらに建安5年(200年)、董承・・らが曹操暗殺計画を企てたが失敗し、彼らとその一族も皆処刑された。この処刑の対象者には、董承の娘で献帝の子を妊娠していた董貴人も含まれていた。
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