ペレ — OpenHistory
現役復帰説
生い立ち
誕生と家族 1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州 トレス・コラソンエスに生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、「発明王」と呼ばれたトーマス・エジソン にちなんで「エジソン (Edison)」と名付けられた11 。しかしペレの出生証明書には「Edson」と誤表記されており、現在も訂正されていない11 。
父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ )はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた12 。180cm 以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり12 13 、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテ を本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロ に所属していたこともあったが14 、膝を痛めて退団した14 15 。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなど、サッカー選手としての成功とは無縁の人生だった12 16 。
ペレはサッカー選手としてのドンジーニョについて「ハンサムですばらしい体の持ち主だった。柔軟な体、たくましい脚、力強さを内に秘めた、サッカー選手としては完璧な肉体を持っていた」と述べ17 、父親としては「短気な母のドナ・セレステ(セレステ・アランテス)とは対照的に、冷静でおとなしく、言葉を口にする前に注意深く考え、言ったことに対しては絶対に責任を取る、というタイプの人間だった。私にとっては、素晴らしい父親であった」と述べている17 。
幼少期 1944年に父親がサンパウロ州 のバウル のクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引越した14 。しかし、父は選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した18 。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた18 。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた18 。
ペレは当初は飛行機の操縦士 になることを夢見ていたが19 20 、ある日友人と病院の近くでサッカーをしていた時に仲間の一人が死体置き場と思われる地下室を見下ろせる天窓を見つけ、中を覗き込んでいたところグライダーで墜落死した飛行士の解剖が行れていた21 。そこで医者が飛行士の腕を持ち上げたりよじったりしていると突然死体が口から血を噴き出し21 、この光景を見て身動きが取れなくなって吐き気を催すほど大きなショックを受けたペレは21 、このことが理由で飛行士になる夢を完全に捨てた21 。やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった22 。
「ペレ 」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGK の「ビレ (Bilé) 」のファンであったことに由来している23 。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pelé 」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エジソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けたこともあった23 。また、ペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」24 、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた13 23 25 。
1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップ が開催された。同大会でブラジルは優勝候補の本命と目され26 、1次リーグのスイス 戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ 戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。
同年7月16日のウルグアイ戦当日は、ペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れ、パーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた26 。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇 )、家中は深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった26 。ペレはこの光景にショックを受け、父やほかの大人たちとともに涙を流したものの27 、悲しみにくれていた父を励まそうと、
悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。 — ペレ
と約束したという26 28 。また、自身がサッカー選手になってからは「いつかはきっと、自分の手でウルグアイへのあだ討ちを果たそう」と誓ったという27 。
少年時代 10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた29 。
1954年に地元のバウルAC が下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団30 。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリト に出会い指導を受けることになった31 。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール )での動きなどを厳しく教え32 、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった33 。
その後、ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い、15歳の時に両親を説得してサントスFC への入団を取り持った34 。
クラブ経歴
サントスFC
プロデビュー 1956年にサントスに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であった35 こともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わず、リザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった36 。月給6000クルゼイロで仮契約を結び37 、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った35 。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた38 。国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった39 40 。ヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していたが40 、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した40 41 。1957年のサンパウロ州選手権 では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ42 。
1958年には同じくFWを務めていたエマヌエレ・デル・ヴェッキオ が欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし43 、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した43 。同年にはジト 、ペペ 、ジウマール らと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献(後述)。ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。ペレはそれらの全ての試合で奇跡を起こすことを期待されていたが44 、1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。
また、クラブでのプレーと平行して兵役 の義務を負わなければならなかった45 。ペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのだから再び国に仕える義務はない」と主張したが45 、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず45 、サントスの沿岸防衛部隊に配属され同年11月には軍選抜チームに選ばれ南米軍人選手権に出場した45 。
同年にはサントス、ブラジル代表、サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場46 。24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48時間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った46 。
国外からのオファー 1961年3月5日、マラカナン・スタジアム で行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC 戦において、自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルからの得点を挙げた47 48 。この得点はサンパウロの『オ・エスポルチ 』紙から「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され47 49 、同紙は記念の額を作り、同スタジアム入口に掲げられた49 。また同スタジアムには「ペレはこのマラカナン・スタジアムにおいて歴史上、最も美しい得点を決めた」と刻まれた記念のプレートが設置された47 48 。この時の得点は後に「ゴウ・ジ・プラッカ」(gol de placa、プレートのゴールの意)と呼ばれるようになり47 、ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされている47 。
また同年のサンパウロ州選手権、グアラニFC では自身のシュートがゴールラインを割っていないにも関わらず主審により得点が認められる珍事もあった50 。ペレは浮き球で2人の相手DFを翻弄した後で3人目のDFを振り切りシュートを放ったが、クロスバーに当たった後に地面に叩きつけられておりゴールラインを割っていたか否かは微妙な状況だった50 。グアラニの選手やファンは猛抗議をしたが主審は「あれだけ見事なプレーなのだから、ゴールを割っていようがいまいが関係ない」と主張した50 ため判定は覆らずゴールが認められた50 。
しかしペレはこれらのオファーに乗り気ではなく、所属クラブのサントスもペレを放出する意思がないことを示したが、この移籍騒動は後にブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展した52 。また、所属するサントスFCはペレを慰留させるための多額の金銭を工面した51 。なおペレは欧州のクラブでプレーをしなかった理由について「ジジ がレアル・マドリード、ジノ・サニ とジョゼ・アルタフィーニ がACミラン へ移籍したように欧州のクラブでプレーをした選手が何人かいたが、私はサントスFCでの生活に満足していた53 」と発言している。
1980年代頃まで世界中の多くのクラブでは外国人枠は「2人」までに設定されていた54 が、欧州のサッカー先進国ではその時代によって国外からの選手移籍に制限を加えようとする動きも見られ55 、イングランドでは1978年まで旧植民地以外の国からの選手移籍を制限55 。イタリアではFIFAワールドカップ での代表チームの成績不振を理由に1966年から1980年の間イタリア系アルゼンチン人 以外の外国籍選手との契約を禁止55 、スペインでも1965年から1970年代初頭まで外国籍選手との契約を禁止56 するなど、他国のリーグでプレーをする機会は必ずしも多くは無かった。
ペレは他の多くの選手と同様にブラジル国内に留まってプレーを続けて、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨いていた57 58 。
国際タイトルの獲得 1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレス に出場し決勝に進出。ウルグアイのペニャロール との対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した59 。この勝利によりインターコンチネンタルカップ への出場権を得てエウゼビオ を擁するポルトガルのSLベンフィカ と対戦。ホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。敵地リスボン での第2戦も好調なプレーを維持59 。ベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。なおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている59 。
翌1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズ を下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミラン を下して2年連続クラブ世界一となった。
一方で数々のタイトルを獲得し著名になっていったことで、ペレは対戦相手から執拗なマークを受けるようになった60 。かつてのような新進気鋭の若手選手ではなく打倒すべき勝利者とみなされ、クラブや代表チームでもいかにペレの動きや周囲とのコンビネーションを止めるかに焦点が当たるようになった60 。相手DFはペレがどこのポジションに付いていても終始マンマークを付けてラフプレーも辞さない激しいプレーを仕掛け60 、時には言葉による挑発を仕掛けて故意に退場を誘おうとする選手もいた60 。
この頃にはブラジル国内においても高額の収入を得るようになっていた61 が、「ペレ」の愛称が多くの価値を生み出すことに気が付き、商標権 を獲得して様々な商品に名前の使用を認めることで更に多くの収入を得るようになった61 。またサントスFCのチームメイトを誘い投機事業に出資を行うなどした61 が、一切の財産管理を一任していた人物が投機に失敗し多額の借金を背負うことになった62 。ペレはクラブの役員会で事情を説明し、クラブ側に有利な条件で契約を更改するかわりに借金を肩代わりしてもらうことになった62 。
アフリカ遠征 クラブは必要な資金を捻出するために依然として国外への遠征ツアーを続けていたが、それまでの欧州や南米だけでなくアジア やアフリカ 、北米 といったサッカーの後進地域のチームとも試合を行うようになった。特に自らのルーツであるアフリカに遠征した際には世界観が変わっただけでなく、社会における自分の立場のあり方を考える契機になった63 。ペレは人種差別のない国で黒人が社会的に成功を収める事が出来る生きた証として崇拝の対象となり64 65 66 、アフリカの人々はペレの姿を一目見ようとスタジアムだけでなく空港まで押し寄せるなど各地で熱狂的に迎えられた64 65 66 。
1000得点達成 同年の夏になると通算1000得点が成るかにメディアやファンの注目が集まった70 。10月に990得点を達成し71 、11月14日にレシフェで行われたボタフォゴFC 戦で999得点目を決めて1000得点まで王手をかけると遠征先の都市では1000得点の瞬間を祝おうとカーニバルが催され、スタジアムは宛らワールドカップ決勝のように熱狂して迎えた72 。メディアによる報道も過熱し、「ペレは1000得点を達成し不老不死となる」と大仰に書き立てる新聞もあった70 。
11月19日、マラカナンスタジアムで行われたCRヴァスコ・ダ・ガマ 戦では6万5千人の観客が見守る中、後半33分にペレがペナルティエリア内で倒されペナルティキックを獲得73 。これを自らゴール右すみに決め1000得点を達成した73 74 。この際にペレが放ったシュートはキックの瞬間に一瞬動きを止めてキーパーの動きを確認してから、その動きと反対方向に決めるという物だった73 が、この技は後に「パラディーニャ 」(ポルトガル語で小休止の意)と呼ばれるようになった73 。
1000得点が達成されるとスタジアム中が熱狂し75 、試合は中断され記者やレポーターがペレに殺到しコメントを求めた76 。ペレは
この得点をブラジルの子供たちに捧げる。神のご加護に報いるためにも貧困に苦しむ子供たちを守ろう。 — ペレ
と答えると、ウイニングランを行ってサポーターの声援に応えた76 77 。しかしこの発言は物議を醸し、「偽善者だ」「民衆を扇動しようとしている」と批判を受けた76 。ペレは自著の中で「その日が誕生日だった母に捧げるというべきだったが、咄嗟に思いつかなかった」「私のような立場の人間がメッセージを発することは重要だ」と述べている76 。その後、ブラジル郵政省からは記念切手 が発行され65 、ブラジル政府は1000得点を達成したペレに勲章を与え翌日を休日とした65 。サンパウロ市はこの記録を記念して1995年に11月19日を「ペレの日」と定めた。
サントスFCでの引退 所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り78 、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた78 。また1971年7月18日のユーゴスラビア 戦を最後にブラジル代表からの引退を表明している。ペレはこのような状況もあってかつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考えるようになった78 。
1970年代初頭には大学や企業の招きを受けて講演を行う機会が増えていたが、高等教育 を受けた人物と交流するうちに学問への意欲が芽生えるようになり79 、サントスFCでフィジカルコーチを務めていたジュリオ・マゼイ の指導を受けて試合や練習の合間に勉強を続け、大学 入試資格に必要な中等教育 課程を修了79 。大学入学試験にも合格し体育学 を専攻した79 。
1973年にはペプシコーラ との間で世界中の子供たちを対象とした「インターナショナル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクトの契約を結んだ80 。この契約は当初1年間の予定だったが、更に5年間延長されペレはマゼイと共に世界64か国を訪問しサッカー教室を開き、サッカーの普及に努めた80 。また「ペレ--キングの法則」と題した教則映画は数々の賞を受賞した80 。
1974年10月2日に行われたポンチ・プレッタ 戦が、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となった81 。試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げた82 83 。
この後、ペレは思い出の地であるメキシコを振り出しに世界キャンペーンに旅立ち、11月19日には訪日し1週間滞在。静岡県 清水市 、東京都 と広島市 で「サッカー教室」を開催した84 85 。
ニューヨーク・コスモス 同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持した。2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー 、ブラジルからカルロス・アウベルト が加わりオールスターチームの陣容を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得。サッカー不毛の地と言われたアメリカ でサッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍88 したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれた。
同年10月1日にジャイアンツ・スタジアム で行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人の観衆が詰掛けた。ペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾った。試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくった89 。
代表経歴 ブラジル代表 デビューは1957年7月7日のアルゼンチン 戦。16歳9ヶ月での代表デビューは当時の史上最年少出場記録であった。試合は1-2で敗れたが、ペレ自身は唯一の得点を決める活躍を見せた。その後は所属クラブでも代表でも活躍を続け、代表チームに定着していった。
1958 FIFAワールドカップ 準々決勝のウェールズ 戦にも先発出場を果たすと、66分にペナルティエリア内からシュートを決め、ワールドカップ史上最年少となる17歳と239日での得点を記録91 。ペレは後にこの試合でのゴールを「私にとって最も重要なゴールの一つだった」と感激を語っている91 。続く準決勝のフランス 戦では52分、64分、75分と立て続けに得点を決めハットトリック の活躍を見せた92 。
決勝のスウェーデン 戦では、55分に浮き球で相手DFを交わしてからボレーシュートを決めて追加点93 、終了間際にはマリオ・ザガロ とのパス交換から駄目押しとなるヘディングシュートを決め5-2の勝利に貢献93 。大会通算6得点の活躍で同国にワールドカップ初優勝をもたらした93 。なお、この試合の55分にペナルティエリア内で相手選手のベングト・グスタフソン (en:Bengt Gustavsson ) の頭上にボールを浮かして置き去りにしてから決めたボレーシュートは全キャリアの中でもベストゴールのひとつだったと語っている94 。この優勝の後、ペレは世界中の新聞や雑誌の表紙を飾り「新たなキングの誕生」と称された95 。
なおこの大会でペレは「背番号10」でプレーし、以降のサッカー界で背番号10番はエースナンバーと見なされるようになったが96 、これは大会当時、チーム内の抽選で割り振られたという全くの偶然から生まれたものであった97 。
1962 FIFAワールドカップ 1962年のワールドカップ・チリ大会 では1次リーグ初戦のメキシコ 戦で1得点1アシストと好調を維持していたが、続く第2戦のチェコスロバキア 戦の25分にドリブル突破からミドルシュートを放った直後に太股の筋肉を痛めた98 。当時の規定で交代出場は認められておらずピッチに留まったが98 、負傷したことを知ったチェコスロバキアのヨゼフ・マソプスト とヤーン・ポプルハール らはペレを故意に痛めつけようとはしなかった98 99 100 。ペレはチェコスロバキアの選手達の行為を「真のスポーツマンシップ」と賞賛し100 99 、「彼らの態度を、私はいまだに深い感動とともに思い出す。私のサッカー生活の中で体験した、最も素晴らしい出来事だった」と振り返っているものの98 、後の試合に出場することは難しくなった99 。ブラジルはペレを欠いたもののガリンシャ らの活躍で大会2連覇を成し遂げた101 。2度目のワールドカップ優勝を成し遂げたことで、ブラジル代表チームは国民と国家のシンボル的存在となった102 。
1966 FIFAワールドカップ 1966年のワールドカップ・イングランド大会 では25歳と選手としてピークを迎えていたが、大会前から怪我を抱えていた。初戦のブルガリア 戦で1得点を決めたものの相手DFのドブロミル・ジェチェフ らによる激しいマークを受けて負傷し、第2戦のハンガリー 戦は首脳陣の判断でペレを温存する事となった。ペレを欠いたブラジルは1-3で敗れ、決勝トーナメント進出が厳しくなると最終戦のポルトガル 戦では怪我をおして出場することになった。この試合でペレは相手DFのジョアン・ペドロ・モライス の執拗なマークに苦しみ前半途中に膝を負傷したが、その後もモライスのペレに対するラフプレーは続き、負傷退場せざるをえなくなった。当時のルールで選手交代は認められておらず103 、ペレを欠いたブラジルは10人で試合を進めたが、1-2で敗れ大会3連覇を逃した。
メディアからは「ブラジルの世界支配は終わりを告げた104 」と酷評され、選手や監督の自宅は暴徒化したファンの襲撃を受けた104 。またギリシャ ではブラジル人女子留学生がブラジルの敗退を苦に船から身投げをする事態まで起こった104 。ペレは度重なるラフプレーの横行や、それを見逃す審判員たちに嫌気が差し失意のあまり「ワールドカップには二度と出場しない」と宣言するほどだった105 。
1970 FIFAワールドカップ 1969年の早々に再びワールドカップブラジル代表のメンバーに入るように要請され、当初は辞退する意向を伝えていたものの、新聞がイングランド大会の敗因を正確に分析し始めたこと、前回大会から技術委員会の顔触れが変わったこと、大会地がメキシコであることを理由に翻意した106 。3度目の優勝を果たせばジュール・リメ杯を永久保持する権限が与えられる事も重要な動機の一つとなった107 。
決勝のイタリア 戦では18分にヘディングで先制点を決めると113 、71分のジャイルジーニョの得点をアシスト114 、88分のカルロス・アウベルトの得点をアシストする活躍で3度目のワールドカップ制覇に貢献114 。試合終了後には興奮した観客がピッチに乱入し選手達を担いでウイニングランを行い優勝を祝福した115 。ワールドカップで3度目の優勝を果たしたことは、軍事独裁 政権下にあったが、「ブラジルの奇跡」と評された高度経済成長期と重なったこともあり熱狂的に受け入れられ102 、ブラジルの国威高揚に大きな役割を果たした116 。
代表引退 その後、1971年7月18日にマラカナン・スタジアムで行われたユーゴスラビア 戦を最後にブラジル代表からの引退を表明した117 。ペレはスタジアムに集まったファンから「フィカ、フィカ(やめないで)」という大合唱を受け117 、これに14年間着用した背番号10のユニフォームを脱いでスタンドに向かって振り、またそのユニフォームで涙をぬぐった117 。ブラジル代表としては国際Aマッチ92試合に出場し77得点を記録118 。通算成績は67勝14引分け11敗。ブラジル代表はペレが去った後、24年間ワールドカップの優勝から遠ざかることになった。
引退後 引退後は国際サッカー連盟 (FIFA) の大使、フェアプレー委員会の一員として世界中で広報活動に携わったほか、国際連合児童基金 (ユニセフ)の親善大使に任命され子供の基本的権利の保護を訴えたイベントに関わった。2001年にはFIFAとユニセフがパートナーシップを締結したが、ペレはこの仕事に携わっている119 。
1995年、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ 大統領の下でスポーツ大臣 に就任。ペレはブラジル史上初の黒人閣僚として1998年までの3年間この職務を務めた。在任期間中は、「オリンピック・ヴィレッジ」と呼ばれる各地方政府と協力してスポーツ施設を建設する公共事業や、ペレ法 (Lei Pelé) の制定に取り組んだ。ヨーロッパにおけるボスマン判決 のブラジル版ともいえるペレ法は選手がクラブに契約で拘束されず自由に移籍を行えるようにした法律で、1998年4月29日に可決され、3年後の2001年3月26日から施行された127 。これにより従来のパス(選手保有権)が廃止され、契約終了後の移籍金が発生することはなくなった。
一方でスポーツ大臣としてサッカー関連の法制定に取り組んだことでアベランジェとテイシェイラとの関係は更に悪化し、ペレの会社はビジネスの場から事実上締め出されていたが、2001年1月に和解が成立し8年間に及んだ争いに終止符を打った123 。しかしメディアからは「王が平民に成り下がった」「スポーツ倫理と戦ってきた我々に対する最大の裏切り」と批判された128 。
多くの名誉職に任命されたほか、1998年にはサッカーにおける功績と数々のボランティア 活動を讃えられイギリス 政府から大英帝国勲章 を授与された127 。またペプシコーラ、プーマ 、マスターカード 、コカコーラ など世界各国で数々の大企業の広告 に出演するなど引退後もCM出演依頼が後を絶たない129 。2002年には製薬会社のファイザー から依頼を受けて勃起不全 (ED) 治療のスポークスマンを務めた129 。「ペレ・カフェ」というコーヒーブランドを持っているが、これは1960年代にブラジル・コーヒー協会がヨーロッパへ進出した際に立ち上げたもので、東欧や中東など世界中で飲用されている129 。
2010年8月1日、選手時代に在籍したニューヨーク・コスモスが再建されることに伴い、同クラブの名誉会長に就任することになった130 。
現役復帰説 ペレは、ニューヨーク・コスモスでの現役引退後に慈善試合や、1980年9月24日に行われたベッケンバウアー引退記念試合131 や、1987年1月に地元ブラジルで開催されたシニア・ワールドカップ132 など8試合に出場している131 。また引退から9年後の1986 FIFAワールドカップ の際には、ブラジル代表のメンバーとして出場する可能性があり131 、当時のテレ・サンターナ 監督も「控え選手として上手く起用出来ればありえない話ではない」と発言していた131 。この時、既に45歳を迎えていたペレの大会出場が実現すればワールドカップ最年少出場記録と最高齢出場記録を保持することになったが、最終的に参加は見送られた131 。1990年10月31日には生誕50周年を祝してイタリア・ミラノ にあるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ で記念試合が行われ、ブラジル代表の10番として世界選抜と対戦し前半42分までプレーしたが131 133 、これが最後の試合出場となっている132 。
2011年、古巣のサントスFCがコパ・リベルタドーレスを48年ぶりに制し同年12月に日本 で開催されるFIFAクラブワールドカップ2011 への出場権を獲得したが、同大会へのペレの出場が取り沙汰された134 。同年8月に同クラブの会長は「70歳という年齢から、長い時間プレーすることは難しいが、皆を感動させるには彼のたった一つのプレーだけで十分である」とペレの現役復帰の可能性を示唆し134 、最終的な判断は監督のムリシ・ラマーリョ に一任すると述べた134 。
その一方で、ペレの代理人はメディアの取材に対し「ペレのスケジュールは1年間を通じて全て埋まっており、実現は不可能である」と会長の発言を否定135 。同年11月にラマーリョ監督によりFIFAクラブワールドカップに出場する23名の選手が発表されたが、ペレの名前はなかった136 。
晩年 2021年の定期健診の際に上行結腸に結腸がん が見つかり、9月4日に摘出手術を受けたあと約1カ月間入院し、同年12月8日よりサンパウロにあるアルベルト・アインシュタイン病院 に入院し化学療法を開始137 。同年12月23日には退院したが、がん治療は継続され138 、以降は病院にて1カ月に1回検査を受ける生活が続いた。2022年4月18日よりアルベルト・アインシュタイン病院に再入院139 。2022年11月29日より治療の見直しを行うため再び入院し140 、入院後には呼吸器感染症の感染も確認された141 。
折しもカタール においてFIFAワールドカップ が開催されているさなかの再入院報道だったため、同大会に出場しているブラジルサポーターが試合前の国歌斉唱 の際にペレの回復を祈る横断幕を掲げたり142 、開催国のカタールにある高さ300m のアスパイア・タワー には、ペレの姿を大きく映し出すライトアップが行われた143 。12月3日には、化学療法が期待通りの結果を出さなくなったため緩和ケア に移行したとブラジルの地元紙が報じたが、翌日にはペレの家族が報道の一部を否定し緩和ケアは行っていないとした141 。12月29日に大腸がん 進行などによる多臓器不全 により82歳で死去した144 。ちなみにペレが死去した時、彼の母親であるセレステ・アランテスは100歳でなお健在であった。その後同日、ボルソナロ大統領 はペレの功績を称えるとともに3日間の服喪を布告した145 。また、映画『勝利への脱出 』でペレと共演した俳優のシルベスター・スタローン は、自身のインスタグラム などでペレの死を悼んだ146 。バラク・オバマ 元アメリカ合衆国大統領 は「世界でも最も有名なアスリートの1人で、彼は人々を団結させるスポーツの力を理解していた」とコメントし、ジョー・バイデン 大統領も「恵まれない生い立ちからサッカー界のレジェンドになったことは何が可能かという物語だった」と称えた147 。2023年2月末には生前の功績が称えられてザ・ベストFIFA特別賞 が贈られた。式典には生前最後の妻であるマルシア・シビーリ・アオキが代わりに出席してロナウド から記念トロフィーが授与された148 。実母セレステ・アランテスは、2024年6月19日に101歳で死去したが、息子が死去したことを知らされることはなかった149 。
ペレが世界に与えた功績についても語り継がれるでしょう。彼がプレーしていた頃、世界は今よりもさらに人種差別が深刻でした。それでも、黒人選手である彼は地球上で最も人気のあるスポーツの王様になりました。彼は黒人選手でも1番になれること、より大きな成功を収めること、そして人種差別を克服できることを示したのです。差別との戦いはまだ終わっていませんが、誰もが**王様(レイ)**ペレの例からインスピレーションを得て戦うことができるように願っています。
ペレはピッチ上で最高の選手である同時に、世界に大きな影響を与えました。この伝説は永遠に続くでしょう。安らかに眠れ、我が友よ。 — ロナウド 、式典でのスピーチにて148
人物
プレースタイル サッカー選手としては小柄な体躯ではあったが150 、身体能力が高く22 151 バランス感覚に優れ151 、アメリカ のスポーツ誌『スポーツ・イラストレイテッド 』からは「ペレは世界中のスポーツマンの中で最も完全な体格の持ち主」と断定されている150 。自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けせず、跳躍力を生かした打点の高いヘディングも得意としていた22 。ペレは100m走を10秒台で走る俊足151 とアフリカ系黒人選手特有の瞬発力や脚の筋力152 を生かし、リズムを急激に変えることでDFのマークを外すドリブル突破を得意としていたが151 、ドリブルの際には大きなストライドでなく常に足下にボールを置きながら細かなステップでコントロールしていた22 。打点の高いヘディングや足下に吸い付くようなドリブル、左右両足から放つ正確なキックといったフォワードとしての基本技術は、ペレと同じく現役時代にセンターフォワードを務めていた父親のドンジーニョの教えによるものだった22 153 。
身体能力や得点能力が際立つが、背番号9タイプの古典的センターフォワードのように前線で孤立してチャンスを待つのではなく、下がり目の位置から前線に飛び出すプレーを好んだ22 。ペレは自著で自らのプレースタイルについて、
得点数だけを見て純粋なセンターフォワードと評するものもいるが、そうではない。私は攻撃的MFであり、守備範囲の広いセンターフォワードだった。 — ペレ
サッカーで一番大事なことはインスピレーション。 — ペレ
と語るように独創的なプレーの持ち主でもあった154 。
1958年ワールドカップのスウェーデン戦でみせた、突進するDFの頭上にボールを浮かせてから相手の背後に回りこむ「シャペウ 」(ポルトガル語で帽子の意)あるいは「レンソウ」(ポルトガル語でハンカチの意)とも言われるプレー155 156 157 、1970年ワールドカップ準決勝のウルグアイ戦で相手GKのラディスラオ・マズルケビッチ と1対1になった場面で、ボールを意図的にスルーしてGKの予測の裏を突き、反対側をすり抜けてシュートを放った158 159 160 「ドリブレ・ダ・バッカ」(ポルトガル語で牛のドリブルの意)の変形ともいえるプレー161 など、予測のつかないプレーを一瞬で判断して実行した162 。ウルグアイ戦でのGKをかわした後に放ったシュートはゴールを外れたものの160 161 、このプレーは「世界サッカー史上で最も美しいノーゴール」と呼ばれ161 、ペレ自身も「ゴールはならなかったが、ゴール以上に有名になった」と語って誇りとしているプレーである161 。また、ペレはトップスピードで走る複数の選手が壁パス を繋ぎながらゴール前に迫る「タベリーニャ」と呼ばれるコンビネーションプレーを考案したと言われている163 。
ブラジル代表時代の同僚だったガリンシャとの比較においては、「ドリブルの技術ではガリンシャの方が上152 」との声もあるが、ペレは自由奔放にプレーをしていたガリンシャとは異なり年齢と共にポジションを下げチームプレーに徹し152 、状況に応じて積極的な守備を行う知性を持ち合わせていた152 。恵まれた反射神経を生かしてゴールキーパー を務めたこともあり164 、サントスFCでは4試合、ブラジル代表では1試合に出場した164 。
家系 ペレの祖先の出自にはアンゴラ 出身とする説とナイジェリア 出身とする説がある165 。ナシメントという姓は祖先がアフリカ大陸 からブラジルに奴隷 として連れられた際に、最初に働いていた農場 の経営者の姓だと言われている165 。ブラジルで奴隷制度が廃止されたのは1888年であり165 、この頃に生まれたペレの祖母らは生まれながらに自由を獲得できた最初の世代となった165 。
父ドンジーニョは元サッカー選手であり、伯父のフランシスコも元サッカー選手であり才能豊かな選手だったが、25歳で早逝した166 167 。弟のジャイール(通称、ゾカ)も一時はサッカー選手を志し、ポジションはミッドフィールダー を務めていた168 。兄と同様にサントスFCに入団し将来を嘱望されていたが168 、マスコミから兄と比較され続けることに嫌気が差し若くして引退168 。その後は弁護士 に転身した168 。
私生活 1966年に白人女性と最初の結婚をし、一男二女に恵まれたが1978年に離婚。長男のエジーニョ は後にサッカー選手を志し、父親の古巣であるサントスFCのテストを受けて合格。父親とは違いゴールキーパーを務めていたが、怪我の影響もあって1999年に現役を引退した169 。エジーニョは引退後は父の経営するサッカー事業に携わっていたが、2005年に麻薬密売に関わっていた容疑で逮捕され170 171 、刑務所に収監された169 。仮釈放後は麻薬中毒のリハビリを受けていたが、2006年に麻薬密売組織の資金洗浄 に関わった容疑で再逮捕された172 。
最初の妻との離婚後、ドイツ系ブラジル人のマリア・ダ・ガラサ・メネゲルと交際した173 。彼女はシュシャ という芸名でモデルとして活動しており、1980年代初頭には『PLAYBOY 』誌の表紙を飾った。後にブラジルの子供 番組の司会者 に抜擢されると、ペレは彼女の経歴を懸念しPLAYBOY誌と独占インタビューに応じる代わりに彼女の写真のネガを引き渡す取引を行った173 。シュシャはこの番組出演を皮切りに映画出演や歌手としても成功を収め、ペレ自身も彼女の番組に特別出演した173 。シュシャはペレと別れた後はF1ドライバー のアイルトン・セナ と交際したが、このことからシュシャを巡ってペレとセナの間でトラブルがあったとの噂が広まった173 。
これまでに2度強盗事件に見舞われている。1999年10月にサンパウロ市内で自動車強盗 に遭遇したが、その際にペレは着用していた黒い帽子を脱ぎ顔を露わにすると、強盗は「あなたから金は取れない」と言って謝罪し175 、何も盗らずにその場から逃走したという176 。2008年6月13日にはサンパウロ州 グアルジャで渋滞にあった際に10人程度の自動車強盗団の襲撃を受け、時計 やネックレス 、携帯電話 などを奪われかけたものの、強盗団のうち数人はペレであることに気づくとその場で返却した。しかしネックレスを奪ったものはペレであることに気づかずにそのまま逃走した177 。
人となり 努力家で123 、非常に負けず嫌いな人物である181 。また、ピッチの上でも外でも自分を神のような存在であろうとする人物とも評される123 。短く刈り上げたヘアスタイルは、父親への敬意を示しており182 、メキシコで「ペレカット」として流行したことがある183 。また、「エンテンデ ?」(entende、「分かるかな ?」という意)という口癖は、ブラジル国内ではしばしば物真似をされている123 。
父親のドンジーニョはサッカー選手にとって有害とされているたばこと酒を一切やらず、父の影響を受けてペレも現役時代はたばこと酒を口にしなかった184 。一度友人たちとたばこを吸っているところを父が通りかかって見られてしまったことがあったが、家で父から「お前はサッカーの才能を持っている。自分でもわかっているだろう。将来きっといい選手になれるよ。でもたばこを吸ったり、酒を飲んだりしたらおしまいだよ。90分間走り回れる体力がなくなってしまうんだ。お前はどっちがいいんだい」と諭され、「私たち一家を、お前の誇りのためにも、もう人からもらおうなんて考えるんじゃないよ。たばこを買う金が必要になったら、いつでもいいなさい。あげるから」と言われたという184 。ペレはこの会話が忘れられないものになったといい、以降一度もたばこを口にしなかった184 。酒については近所のイタリア人の子供に誘われて赤ぶどう酒をビンの半分も飲んでしまい、死ぬかと思うほどひどく悪い気分になったという体験から飲まなくなったといい184 、この時は父からきついお仕置きを食らったという184 。
日本との縁
人間関係
マラドーナとの関係 1980年代から1990年代のスター選手であるアルゼンチン のディエゴ・マラドーナ とはしばしば比較対象とされている206 207 208 。2000年12月にFIFA20世紀最優秀選手が発表されることになったが、ペレはFIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では72.25%の投票率を得て2位のアルフレッド・ディ・ステファノ と3位のマラドーナを上回ったものの、FIFA公式サイトによるインターネット投票ではマラドーナが53.6%の投票率を得たのに対しペレは18.53%と下回った。FIFAは当初、最優秀選手を一人だけ選ぶ事にしていたが、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。事態の沈静化に乗り出したFIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決め、両者はイタリアのローマ で行われた授賞式に出席した209 。
このように両者並び立つ存在として評価され、お互いに偉大な選手として一定のレベルで認め合う存在ではあるが210 211 、その一方で、ブラジルとアルゼンチンのライバル関係を元に両国のマスコミが煽り立てたこともあり、マラドーナが2020年11月に逝去するまでの間は長年事あるごとに批判や非難の応酬を繰り返した。マラドーナは子供時代に同じスラム街に生まれてサッカー界の英雄となったペレを訪ねて隣に座って親しく話したいという夢を抱き、1979年にはリオデジャネイロ巡礼の旅に出たほどであったが212 、1982 FIFAワールドカップ でアルゼンチンが2次リーグのブラジル戦で敗れて敗退が決まった際にペレがマラドーナに対して「マラドーナは人間性に欠けるところがあるため、そのサッカーの才能を台無しにしてしまった212 」、「私は、マラドーナが世界のサッカーファンから称賛を受けるだけの十分な偉大さを持っている人間かどうか、大きな疑問を持っている212 」と手厳しく批判し、これでマラドーナもペレに対して悪感情を抱くようになった212 。
その後、2005年アルゼンチンのTV番組「ラ・ノーチェ・デル・ディエス」出演時にマラドーナと和解した213 214 215 。
ペレは2008年にマラドーナの薬物違反 について「彼はドーピング検査で陽性反応が出ている以上、受賞したタイトル全てを剥奪されるべきだった。ドーピング検査で陽性反応となったオリンピック選手らはメダルを剥奪されているのだから、マラドーナが剥奪されないのはおかしい」とマラドーナを批判し211 、2009年9月には、マラドーナが「彼はW杯を多く勝ち取っているが、欧州でプレーするのはまた別のことだ」とペレの記録を軽視する発言をした直後に、ペレは「マラドーナは偉大な選手だが、右足で蹴ることができず、ヘディングでの得点はなかった。彼がヘディングで決めた唯一の重要な得点はハンドだったことが判明している」と反論210 。2010年6月には、2010 FIFAワールドカップ の開催を過去に疑問視していた時期があったペレを216 マラドーナが大会開幕後に当時の発言を持ち出して批判すると216 217 、これに対しペレは「彼が代表監督を引き受けたのは、金と仕事を必要としていて、再び世間の注目を集めたいと思っていただけだ。監督にしたのは大間違いだ」「私にもっと敬意を払うべきだ」と反論216 217 。更にマラドーナも自分の監督手腕を疑問視されたことで「(ペレは)博物館へ戻るべきだ218 」とコメントし、非難の応酬を繰り返した。
2020年11月25日にマラドーナが逝去したことを受けて、ペレは自身のインスタグラム アカウントにおいて1986 FIFAワールドカップ でアルゼンチンが優勝してトロフィーを掲げるマラドーナの写真を投稿し、「きょう悲しいニュースがあった。私は親愛なる友を失い、世界はレジェンドを失った。言いたいことはもっとあるが、ひとまず、神が彼の家族に力を与えてくれますように。いつか天上で一緒にサッカーができることを願う」と述べた219 。
リベリーノとの関係 1960年代のインタビューで、司会「ペレ選手、あなたに出来ない事はないですね?」との問いに「コリンチャンスの試合での試合開始のキックオフで味方がワンタッチした球をリベリーノが直接ゴールした事があった。リヴァ(リベリーノ)はキーパーが前に出ていたことを見逃さなかったんだ。とにかく、そんなのは初めてだろ?」と述べているが、他方で非常に嫉妬していた。1966年頃までは国内でサントスのペレは無双であったが、以降はコリンチャンスのリベリーノがブラジル国内では人気・実力共にペレを抜きNO.1であった。また、『ペレが選んだ偉大なサッカー選手100人』からリベリーノを外している(各方面からクレームが付き、後に25人追加された中にリベリーノが入っている)。また、関係が修復したマラドーナとの会話では、「リベリーノはダメだ」とオフレコで述べている。また、マラドーナが自分(ペレ)ではなく「リベリーノに憧れた」発言には不満であった。総じて自分の地位を脅かすリベリーノに対して否定的な発言が多い220 215 221 。
ガリンシャとの関係 ペレは当初ガリンシャのプレースタイルについて「次に何のプレーを選択するのか読めない」と当惑していたが、何度も話し合いを持つうちにやがて名コンビとなり222 、ブラジル代表で二人が揃って出場した試合は負け知らずという記録を残した222 。しかし、このことは当の本人達は一切知らず、話題にも上らなかった222 。また、後にガリンシャの妻となるサンバ歌手のエルザ・ソアレス とペレが交際していたとの噂が広まったこともあった223 が、ペレの自著によると根拠のないゴシップだとしている223 。ブラジル国内では比較対象とされることの多い224 二人だが、現役時代は活動拠点がそれぞれ異なっていたこともあって、ブラジル代表を離れると交流機会は少なかった222 。
引退後は全く異なる人生を送っていたがガリンシャの死の2か月前、1982年末にブラジルのプラカール 誌により二人の特集が企画され再会を果たした225 。一方で翌1983年1月の葬儀にリオデジャネイロ選手組合会長のジーコ らと同じく姿を見せなかったことが地元メディアの話題となった225 。
アベランジェとの関係 1958年ワールドカップの際に、まだ17歳だったペレをブラジル代表メンバーに抜擢するように主張したのは当時ブラジルサッカー連盟 (CBF) 副会長を務めていたジョアン・アベランジェ と言われている226 。
また、1966年のワールドカップでペレが「二度と代表チームではプレーをしない」と宣言した際には、あらゆる手を尽くして代表に復帰するように粘り強く説得した227 。これらの経緯からアベランジェは「ペレは私に大きな貸しがある」と考え227 、ペレ自身も敬意を示していた126 227 。
1970年代初頭にアベランジェがFIFA会長選挙立候補のためにアフリカ諸国を訪問した際には、ペレもこれに同行してアベランジェへの投票を陳情するなど全面的に協力126 228 。反アパルトヘイト を掲げて228 理事達の支持を得て1974年に南米出身者として初めてFIFA会長の座についた。アベランジェは各年代別の国際大会創設やスポンサーの獲得など手腕を発揮したが229 、後に独裁ぶりが非難をされるようになった229 。
影響 ペレの後継者と目される選手や、その国を代表とする攻撃的なポジションの選手は「○○のペレ」との異名が付けられることがある。ペレの現役時代には7歳年下のトスタン がゲームメイク能力と得点能力を併せ持った事から「白いペレ」230 、ソビエト連邦のストライカーだったエドゥアルド・ストレリツォフ が「ロシアのペレ」231 の異名で呼ばれた。
評価 テレビ やインターネット が普及していない情報伝達の遅い時代に、様々なプレーを考案し実行した先駆的存在である251 。一方、ペレのプレーを止める為にラフプレーが横行し蔓延する結果となり252 、その対策として選手交代やイエローカードとレッドカードの制度が導入される252 など、その存在がサッカー競技に変化をもたらした252 。ブラジル代表ではペレ以降背番号10がエースナンバーとなったが、後に引き継いだ選手には相当のプレッシャーとなったという253 254 。
当時の選手では殆ど前例がない中、引退後の生活を考えて企業の広告塔として活動したこともあって、1970年代に欧州で行われたブランドとしての知名度の調査では、ペレの名前はコカ・コーラ に次いで第2位にランクされた255 。1973年にブラジル国内で行われた知名度の調査ではエミリオ・ガラスタズ・メディチ やリチャード・ニクソン を上回りペレが1位を獲得256 。引退後の1993年に、世界109か国991人のスポーツ記者を対象に行われたワールドカップ史上最も偉大な選手の投票において、第1位に選ばれた256 。知名度の高さについて、自ら「イエス・キリスト より有名かもしれない」と発言したこともある257 。また、「ペレの綴りを知っているか?G・O・D(神)と書くんだ」と発言したイギリス人記者もいた258 。
かつて、ビアフラとナイジェリアの内戦を一時的に停止させるなど、政治家以上の影響力を持ち259 、引退後はブラジル大統領に就くことを公言してきた259 。1990年代にはブラジルのスポーツ大臣として利権者たちと対決して腐敗を告発し、一時期ブラジルサッカー界の近代化のための旗手となった123 。1999年には、タイム誌 の選ぶ「20世紀の最も影響力のある100人」の一人に選ばれるなど、サッカーやスポーツの枠を超えた影響力のある人物と評価されている。
選手時代から病院や公共施設に多額の寄付を行い256 、孤児のための基金を設立するなどの功績により、人徳者として紹介される256 一方で、前述のようにブラジルサッカー界の腐敗を正す立場にありながらあっさりと権力者と手を結んでしまった姿勢260 や、ブラジル代表や現役としてプレーする選手たちへの辛辣な発言が物議を醸すことがあり123 261 、一部で人間性に疑問の声も出ている123 262 。ペレについてはかつてのチームメイトや対戦相手だけでなく政治家や芸術家など様々な分野の人間がそれぞれの立場からコメントを残している。
獲得タイトル
個人成績 国際サッカー連盟(FIFA)公式サイトによると、1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年で通算1363試合出場、1281ゴール4 。公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である(非公式ではゲルト・ミュラー 1461点、アルツール・フリーデンライヒ の1329ゴールなど上回る記録はある)。1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックは92回、1試合最多得点は8点としている4 。
統計
関連情報
映画
O Barao Otelo no Barato dos Bilhoes :1971年
A Marcha :1973年
Os Trombadinhas :1978年
『勝利への脱出 』(Escape to Victory ):1981年
『ヤング・ジャイアンツ〜奇跡のイレブン〜』(A Minor Miracle ):1983年
Pedro Mico :1985年
Os Trapalhoes e o Rei do Futebol :1986年
『炎のストライカー』(Hot Shot ):1986年
Solidao, Uma Linda Historia de Amor :1990年
Mike Bassett: England Manager :2001年
Pele Eterno :2004年
『ペレを買った男 』(Once in a Lifetime ):2006年
『ペレ 伝説の誕生 』:2016年
書籍
『サッカーわが人生--ペレ自伝』(My life and the beautiful game 、鈴木武士 訳、講談社 、1977年)
『ワールドカップ殺人事件』(World cup Murder 、安藤由紀子訳、東京創元社 、1990年)
『ペレ自伝』(伊藤淳翻訳、白水社 、2008年)
参考文献
安藤正純『サッカーについて僕たちが本音で語った本』東邦出版 、2008年。ISBN 4809406733。
岩永修幸『蹴球神髄―サッカーの名言集』出版芸術社 、2005年。ISBN 4882932695。
牛木素吉郎 『サッカー世界のプレー ワールドカップのスターたち』講談社 、1970年。
小倉純二 『サッカーの国際政治学』講談社〈講談社現代新書 〉、2004年。ISBN 4061497308。
国吉好弘『サッカーマルチ大事典 改訂版』週刊サッカーマガジン 責任編集、ベースボール・マガジン社、2006年。ISBN 4583038801。
後藤健生 「「王様」の称号に相応しい万能のフットボーラー ペレ」『ワールドカップ伝説 vol.4(’70年代編)―永久保存版 偉大なる開拓者たちの時代』ベースボール・マガジン社 〈B・B MOOK 666 スポーツシリーズ NO. 538〉、2010年。ISBN 4583616791。
後藤健生、加部究 、亘崇詞 『ワールドカップ最強伝説--歴史を変えた選手・チーム・戦術--』白夜書房 〈サッカー小僧新書2〉、2010年。ISBN 4861916267。
後藤忠弘『あの一言はすごかった!スポーツ編』中経出版 、2002年。ISBN 480611748X。
沢田啓明『情熱のブラジルサッカー--華麗・独創・興奮』平凡社 〈平凡社新書 〉、2002年。ISBN 4582851312。
柴田勗『ブラジルサッカー総覧 ブラジルサッカーの歴史から用語まで』河出書房新社 、2001年。ISBN 4309264689。
武智幸徳 『サッカー依存症』日本経済新聞出版社 、2010年。ISBN 4532167418。
西部謙司『神の足 サッカースーパースター技術録』コスミック出版 〈COSMO BOOKS〉、2010年。ISBN 4774790397。
藤原清美 『感動! ブラジルサッカー』講談社〈講談社現代新書〉、2006年。ISBN 4061498355。
松岡完『ワールドカップの国際政治学』朝日新聞社 〈朝日選書 〉、1994年。ISBN 4022595973。
松岡完「第二のペレを寄せ付けない技術と人格」『スターからアイドルへ―スポーツ・芸能・モード』朝日新聞社〈二十世紀の千人〉、1995年。ISBN 4022586079。
山田睦男『概説ブラジル史』有斐閣 〈有斐閣選書〉、1986年。ISBN 4641024952。
アレックス・ベロス 著、土屋晃、対馬妙 訳『フチボウ 美しきブラジルの蹴球』ソニー・マガジンズ 、2006年。ISBN 4789728544。
アンジェロ・イシ『ブラジルを知るための55章』明石書店 〈エリア・スタディーズ〉、2001年。ISBN 4750314153。
アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス 著、市之瀬敦 訳『背番号10 サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』白水社 、2008年。ISBN 4560026408。
クリストファー・ヒルトン、イアン・コール 著、野間けい子 訳『南米サッカーのすべて 3rd edition』DAI-X出版、2002年。ISBN 4812519101。
ジミー・バーンズ 著、宮川毅 訳『ディエゴ・マラドーナの真実 追悼・増補版』ベースボール・マガジン社、2021年。ISBN 4583114249。
ジーコ 『ジーコイズム』小学館 〈週刊ポストBOOKS〉、2003年。ISBN 4093795932。
ステファン・シマンスキー、アンドリュー・ジンバリスト 著、田村勝省 訳『サッカーで燃える国 野球で儲ける国--スポーツ文化の経済史』ダイヤモンド社 、2006年。ISBN 4478220042。
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ 著、藤坂ガルシア千鶴 訳『マラドーナ自伝』金子達仁 監修、幻冬舎 、2002年。ISBN 4344002024。
デヴィッド・ヤロップ著 著、小林令子 訳『盗まれたワールドカップ』二宮清純 監修、アーティストハウス 、1999年。ISBN 4901142070。
ネルソン・ヒラタ 著、牛木素吉郎 、ブラビス・インターナショナル 訳「ペレの神話」『ペレのサッカー--ペレの技術を学ぼう』ペレ著、講談社〈講談社スポーツシリーズ〉、1981年。ISBN 4061414070。
ブライアン・グランヴィル 著、田村修一、土屋晃、田邊雅之 訳『決定版ワールドカップ全史』賀川浩 監修、草思社 、1998年。ISBN 4794208189。
フランクリン・フォア 著、伊達淳 訳『サッカーが世界を解明する』白水社、2006年。ISBN 4560049750。
ペレ 著、鈴木武士 訳『サッカーわが人生--ペレ自伝』講談社、1977年。
ペレ 著、伊達淳 訳『ペレ自伝』白水社、2008年。ISBN 4560026300。
リチャード・ウィリアムズ 著、町田敦夫 訳『背番号10のファンタジスタ』ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 4583100108。
ロジャー・マクドナルド 著、サッカーマガジン編集部 訳『写真で見るサッカーの歴史 グローバル・スポーツそのメモリアル・シーン』ベースボール・マガジン社、1982年。ISBN 4583021313。
FIFA 編「Players Portraits 」『フットボールの歴史 FIFA創立100周年記念出版』講談社、2004年。ISBN 4062125609。
脚注
3.4.
1970 FIFAワールドカップ
ペレ (Pelé1 )こと、エジソン・アランチス・ド・ナシメント (Edson Arantes do Nascimento2 、1940年10月23日 - 2022年12月29日)は、ブラジル のサッカー選手 。アフリカ系ブラジル人 。
サッカーブラジル代表 のエースとして3度のFIFAワールドカップ 優勝(2022年時点で唯一の記録でもある3 )。クラブではサントスFC で活躍し、インターコンチネンタルカップ で欧州王者を破り、2度のクラブ世界一を経験。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した4 。このような実績から「サッカーの王様」(英語 : The King of football、ポルトガル語 : O Rei do Futebol)4 と呼ばれており、史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている5 6 7 8 9 。
生い立ち
誕生と家族 1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州 トレス・コラソンエスに生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、「発明王」と呼ばれたトーマス・エジソン にちなんで「エジソン (Edison)」と名付けられた11 。しかしペレの出生証明書には「Edson」と誤表記されており、現在も訂正されていない11 。
父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ )はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた12 。180cm 以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり12 13 、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテ を本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロ に所属していたこともあったが14 、膝を痛めて退団した14 15 。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなど、サッカー選手としての成功とは無縁の人生だった12 16 。
ペレはサッカー選手としてのドンジーニョについて「ハンサムですばらしい体の持ち主だった。柔軟な体、たくましい脚、力強さを内に秘めた、サッカー選手としては完璧な肉体を持っていた」と述べ17 、父親としては「短気な母のドナ・セレステ(セレステ・アランテス)とは対照的に、冷静でおとなしく、言葉を口にする前に注意深く考え、言ったことに対しては絶対に責任を取る、というタイプの人間だった。私にとっては、素晴らしい父親であった」と述べている17 。
幼少期 1944年に父親がサンパウロ州 のバウル のクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引越した14 。しかし、父は選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した18 。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた18 。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた18 。
ペレは当初は飛行機の操縦士 になることを夢見ていたが19 20 、ある日友人と病院の近くでサッカーをしていた時に仲間の一人が死体置き場と思われる地下室を見下ろせる天窓を見つけ、中を覗き込んでいたところグライダーで墜落死した飛行士の解剖が行れていた21 。そこで医者が飛行士の腕を持ち上げたりよじったりしていると突然死体が口から血を噴き出し21 、この光景を見て身動きが取れなくなって吐き気を催すほど大きなショックを受けたペレは21 、このことが理由で飛行士になる夢を完全に捨てた21 。やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった22 。
「ペレ 」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGK の「ビレ (Bilé) 」のファンであったことに由来している23 。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pelé 」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エジソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けたこともあった23 。また、ペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」24 、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた13 23 25 。
1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップ が開催された。同大会でブラジルは優勝候補の本命と目され26 、1次リーグのスイス 戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ 戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。
同年7月16日のウルグアイ戦当日は、ペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れ、パーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた26 。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇 )、家中は深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった26 。ペレはこの光景にショックを受け、父やほかの大人たちとともに涙を流したものの27 、悲しみにくれていた父を励まそうと、
悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。 — ペレ
と約束したという26 28 。また、自身がサッカー選手になってからは「いつかはきっと、自分の手でウルグアイへのあだ討ちを果たそう」と誓ったという27 。
少年時代 10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた29 。
1954年に地元のバウルAC が下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団30 。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリト に出会い指導を受けることになった31 。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール )での動きなどを厳しく教え32 、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった33 。
その後、ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い、15歳の時に両親を説得してサントスFC への入団を取り持った34 。
クラブ経歴
サントスFC
プロデビュー 1956年にサントスに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であった35 こともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わず、リザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった36 。月給6000クルゼイロで仮契約を結び37 、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った35 。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた38 。国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった39 40 。ヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していたが40 、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した40 41 。1957年のサンパウロ州選手権 では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ42 。
1958年には同じくFWを務めていたエマヌエレ・デル・ヴェッキオ が欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし43 、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した43 。同年にはジト 、ペペ 、ジウマール らと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献(後述)。ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。ペレはそれらの全ての試合で奇跡を起こすことを期待されていたが44 、1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。
また、クラブでのプレーと平行して兵役 の義務を負わなければならなかった45 。ペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのだから再び国に仕える義務はない」と主張したが45 、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず45 、サントスの沿岸防衛部隊に配属され同年11月には軍選抜チームに選ばれ南米軍人選手権に出場した45 。
同年にはサントス、ブラジル代表、サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場46 。24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48時間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った46 。
国外からのオファー 1961年3月5日、マラカナン・スタジアム で行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC 戦において、自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルからの得点を挙げた47 48 。この得点はサンパウロの『オ・エスポルチ 』紙から「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され47 49 、同紙は記念の額を作り、同スタジアム入口に掲げられた49 。また同スタジアムには「ペレはこのマラカナン・スタジアムにおいて歴史上、最も美しい得点を決めた」と刻まれた記念のプレートが設置された47 48 。この時の得点は後に「ゴウ・ジ・プラッカ」(gol de placa、プレートのゴールの意)と呼ばれるようになり47 、ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされている47 。
また同年のサンパウロ州選手権、グアラニFC では自身のシュートがゴールラインを割っていないにも関わらず主審により得点が認められる珍事もあった50 。ペレは浮き球で2人の相手DFを翻弄した後で3人目のDFを振り切りシュートを放ったが、クロスバーに当たった後に地面に叩きつけられておりゴールラインを割っていたか否かは微妙な状況だった50 。グアラニの選手やファンは猛抗議をしたが主審は「あれだけ見事なプレーなのだから、ゴールを割っていようがいまいが関係ない」と主張した50 ため判定は覆らずゴールが認められた50 。
しかしペレはこれらのオファーに乗り気ではなく、所属クラブのサントスもペレを放出する意思がないことを示したが、この移籍騒動は後にブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展した52 。また、所属するサントスFCはペレを慰留させるための多額の金銭を工面した51 。なおペレは欧州のクラブでプレーをしなかった理由について「ジジ がレアル・マドリード、ジノ・サニ とジョゼ・アルタフィーニ がACミラン へ移籍したように欧州のクラブでプレーをした選手が何人かいたが、私はサントスFCでの生活に満足していた53 」と発言している。
1980年代頃まで世界中の多くのクラブでは外国人枠は「2人」までに設定されていた54 が、欧州のサッカー先進国ではその時代によって国外からの選手移籍に制限を加えようとする動きも見られ55 、イングランドでは1978年まで旧植民地以外の国からの選手移籍を制限55 。イタリアではFIFAワールドカップ での代表チームの成績不振を理由に1966年から1980年の間イタリア系アルゼンチン人 以外の外国籍選手との契約を禁止55 、スペインでも1965年から1970年代初頭まで外国籍選手との契約を禁止56 するなど、他国のリーグでプレーをする機会は必ずしも多くは無かった。
ペレは他の多くの選手と同様にブラジル国内に留まってプレーを続けて、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨いていた57 58 。
国際タイトルの獲得 1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレス に出場し決勝に進出。ウルグアイのペニャロール との対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した59 。この勝利によりインターコンチネンタルカップ への出場権を得てエウゼビオ を擁するポルトガルのSLベンフィカ と対戦。ホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。敵地リスボン での第2戦も好調なプレーを維持59 。ベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。なおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている59 。
翌1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズ を下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミラン を下して2年連続クラブ世界一となった。
一方で数々のタイトルを獲得し著名になっていったことで、ペレは対戦相手から執拗なマークを受けるようになった60 。かつてのような新進気鋭の若手選手ではなく打倒すべき勝利者とみなされ、クラブや代表チームでもいかにペレの動きや周囲とのコンビネーションを止めるかに焦点が当たるようになった60 。相手DFはペレがどこのポジションに付いていても終始マンマークを付けてラフプレーも辞さない激しいプレーを仕掛け60 、時には言葉による挑発を仕掛けて故意に退場を誘おうとする選手もいた60 。
この頃にはブラジル国内においても高額の収入を得るようになっていた61 が、「ペレ」の愛称が多くの価値を生み出すことに気が付き、商標権 を獲得して様々な商品に名前の使用を認めることで更に多くの収入を得るようになった61 。またサントスFCのチームメイトを誘い投機事業に出資を行うなどした61 が、一切の財産管理を一任していた人物が投機に失敗し多額の借金を背負うことになった62 。ペレはクラブの役員会で事情を説明し、クラブ側に有利な条件で契約を更改するかわりに借金を肩代わりしてもらうことになった62 。
アフリカ遠征 クラブは必要な資金を捻出するために依然として国外への遠征ツアーを続けていたが、それまでの欧州や南米だけでなくアジア やアフリカ 、北米 といったサッカーの後進地域のチームとも試合を行うようになった。特に自らのルーツであるアフリカに遠征した際には世界観が変わっただけでなく、社会における自分の立場のあり方を考える契機になった63 。ペレは人種差別のない国で黒人が社会的に成功を収める事が出来る生きた証として崇拝の対象となり64 65 66 、アフリカの人々はペレの姿を一目見ようとスタジアムだけでなく空港まで押し寄せるなど各地で熱狂的に迎えられた64 65 66 。
1000得点達成 同年の夏になると通算1000得点が成るかにメディアやファンの注目が集まった70 。10月に990得点を達成し71 、11月14日にレシフェで行われたボタフォゴFC 戦で999得点目を決めて1000得点まで王手をかけると遠征先の都市では1000得点の瞬間を祝おうとカーニバルが催され、スタジアムは宛らワールドカップ決勝のように熱狂して迎えた72 。メディアによる報道も過熱し、「ペレは1000得点を達成し不老不死となる」と大仰に書き立てる新聞もあった70 。
11月19日、マラカナンスタジアムで行われたCRヴァスコ・ダ・ガマ 戦では6万5千人の観客が見守る中、後半33分にペレがペナルティエリア内で倒されペナルティキックを獲得73 。これを自らゴール右すみに決め1000得点を達成した73 74 。この際にペレが放ったシュートはキックの瞬間に一瞬動きを止めてキーパーの動きを確認してから、その動きと反対方向に決めるという物だった73 が、この技は後に「パラディーニャ 」(ポルトガル語で小休止の意)と呼ばれるようになった73 。
1000得点が達成されるとスタジアム中が熱狂し75 、試合は中断され記者やレポーターがペレに殺到しコメントを求めた76 。ペレは
この得点をブラジルの子供たちに捧げる。神のご加護に報いるためにも貧困に苦しむ子供たちを守ろう。 — ペレ
と答えると、ウイニングランを行ってサポーターの声援に応えた76 77 。しかしこの発言は物議を醸し、「偽善者だ」「民衆を扇動しようとしている」と批判を受けた76 。ペレは自著の中で「その日が誕生日だった母に捧げるというべきだったが、咄嗟に思いつかなかった」「私のような立場の人間がメッセージを発することは重要だ」と述べている76 。その後、ブラジル郵政省からは記念切手 が発行され65 、ブラジル政府は1000得点を達成したペレに勲章を与え翌日を休日とした65 。サンパウロ市はこの記録を記念して1995年に11月19日を「ペレの日」と定めた。
サントスFCでの引退 所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り78 、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた78 。また1971年7月18日のユーゴスラビア 戦を最後にブラジル代表からの引退を表明している。ペレはこのような状況もあってかつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考えるようになった78 。
1970年代初頭には大学や企業の招きを受けて講演を行う機会が増えていたが、高等教育 を受けた人物と交流するうちに学問への意欲が芽生えるようになり79 、サントスFCでフィジカルコーチを務めていたジュリオ・マゼイ の指導を受けて試合や練習の合間に勉強を続け、大学 入試資格に必要な中等教育 課程を修了79 。大学入学試験にも合格し体育学 を専攻した79 。
1973年にはペプシコーラ との間で世界中の子供たちを対象とした「インターナショナル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクトの契約を結んだ80 。この契約は当初1年間の予定だったが、更に5年間延長されペレはマゼイと共に世界64か国を訪問しサッカー教室を開き、サッカーの普及に努めた80 。また「ペレ--キングの法則」と題した教則映画は数々の賞を受賞した80 。
1974年10月2日に行われたポンチ・プレッタ 戦が、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となった81 。試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げた82 83 。
この後、ペレは思い出の地であるメキシコを振り出しに世界キャンペーンに旅立ち、11月19日には訪日し1週間滞在。静岡県 清水市 、東京都 と広島市 で「サッカー教室」を開催した84 85 。
ニューヨーク・コスモス 同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持した。2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー 、ブラジルからカルロス・アウベルト が加わりオールスターチームの陣容を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得。サッカー不毛の地と言われたアメリカ でサッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍88 したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれた。
同年10月1日にジャイアンツ・スタジアム で行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人の観衆が詰掛けた。ペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾った。試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくった89 。
代表経歴 ブラジル代表 デビューは1957年7月7日のアルゼンチン 戦。16歳9ヶ月での代表デビューは当時の史上最年少出場記録であった。試合は1-2で敗れたが、ペレ自身は唯一の得点を決める活躍を見せた。その後は所属クラブでも代表でも活躍を続け、代表チームに定着していった。
1958 FIFAワールドカップ 準々決勝のウェールズ 戦にも先発出場を果たすと、66分にペナルティエリア内からシュートを決め、ワールドカップ史上最年少となる17歳と239日での得点を記録91 。ペレは後にこの試合でのゴールを「私にとって最も重要なゴールの一つだった」と感激を語っている91 。続く準決勝のフランス 戦では52分、64分、75分と立て続けに得点を決めハットトリック の活躍を見せた92 。
決勝のスウェーデン 戦では、55分に浮き球で相手DFを交わしてからボレーシュートを決めて追加点93 、終了間際にはマリオ・ザガロ とのパス交換から駄目押しとなるヘディングシュートを決め5-2の勝利に貢献93 。大会通算6得点の活躍で同国にワールドカップ初優勝をもたらした93 。なお、この試合の55分にペナルティエリア内で相手選手のベングト・グスタフソン (en:Bengt Gustavsson ) の頭上にボールを浮かして置き去りにしてから決めたボレーシュートは全キャリアの中でもベストゴールのひとつだったと語っている94 。この優勝の後、ペレは世界中の新聞や雑誌の表紙を飾り「新たなキングの誕生」と称された95 。
なおこの大会でペレは「背番号10」でプレーし、以降のサッカー界で背番号10番はエースナンバーと見なされるようになったが96 、これは大会当時、チーム内の抽選で割り振られたという全くの偶然から生まれたものであった97 。
1962 FIFAワールドカップ 1962年のワールドカップ・チリ大会 では1次リーグ初戦のメキシコ 戦で1得点1アシストと好調を維持していたが、続く第2戦のチェコスロバキア 戦の25分にドリブル突破からミドルシュートを放った直後に太股の筋肉を痛めた98 。当時の規定で交代出場は認められておらずピッチに留まったが98 、負傷したことを知ったチェコスロバキアのヨゼフ・マソプスト とヤーン・ポプルハール らはペレを故意に痛めつけようとはしなかった98 99 100 。ペレはチェコスロバキアの選手達の行為を「真のスポーツマンシップ」と賞賛し100 99 、「彼らの態度を、私はいまだに深い感動とともに思い出す。私のサッカー生活の中で体験した、最も素晴らしい出来事だった」と振り返っているものの98 、後の試合に出場することは難しくなった99 。ブラジルはペレを欠いたもののガリンシャ らの活躍で大会2連覇を成し遂げた101 。2度目のワールドカップ優勝を成し遂げたことで、ブラジル代表チームは国民と国家のシンボル的存在となった102 。
1966 FIFAワールドカップ 1966年のワールドカップ・イングランド大会 では25歳と選手としてピークを迎えていたが、大会前から怪我を抱えていた。初戦のブルガリア 戦で1得点を決めたものの相手DFのドブロミル・ジェチェフ らによる激しいマークを受けて負傷し、第2戦のハンガリー 戦は首脳陣の判断でペレを温存する事となった。ペレを欠いたブラジルは1-3で敗れ、決勝トーナメント進出が厳しくなると最終戦のポルトガル 戦では怪我をおして出場することになった。この試合でペレは相手DFのジョアン・ペドロ・モライス の執拗なマークに苦しみ前半途中に膝を負傷したが、その後もモライスのペレに対するラフプレーは続き、負傷退場せざるをえなくなった。当時のルールで選手交代は認められておらず103 、ペレを欠いたブラジルは10人で試合を進めたが、1-2で敗れ大会3連覇を逃した。
メディアからは「ブラジルの世界支配は終わりを告げた104 」と酷評され、選手や監督の自宅は暴徒化したファンの襲撃を受けた104 。またギリシャ ではブラジル人女子留学生がブラジルの敗退を苦に船から身投げをする事態まで起こった104 。ペレは度重なるラフプレーの横行や、それを見逃す審判員たちに嫌気が差し失意のあまり「ワールドカップには二度と出場しない」と宣言するほどだった105 。
1970 FIFAワールドカップ 1969年の早々に再びワールドカップブラジル代表のメンバーに入るように要請され、当初は辞退する意向を伝えていたものの、新聞がイングランド大会の敗因を正確に分析し始めたこと、前回大会から技術委員会の顔触れが変わったこと、大会地がメキシコであることを理由に翻意した106 。3度目の優勝を果たせばジュール・リメ杯を永久保持する権限が与えられる事も重要な動機の一つとなった107 。
決勝のイタリア 戦では18分にヘディングで先制点を決めると113 、71分のジャイルジーニョの得点をアシスト114 、88分のカルロス・アウベルトの得点をアシストする活躍で3度目のワールドカップ制覇に貢献114 。試合終了後には興奮した観客がピッチに乱入し選手達を担いでウイニングランを行い優勝を祝福した115 。ワールドカップで3度目の優勝を果たしたことは、軍事独裁 政権下にあったが、「ブラジルの奇跡」と評された高度経済成長期と重なったこともあり熱狂的に受け入れられ102 、ブラジルの国威高揚に大きな役割を果たした116 。
代表引退 その後、1971年7月18日にマラカナン・スタジアムで行われたユーゴスラビア 戦を最後にブラジル代表からの引退を表明した117 。ペレはスタジアムに集まったファンから「フィカ、フィカ(やめないで)」という大合唱を受け117 、これに14年間着用した背番号10のユニフォームを脱いでスタンドに向かって振り、またそのユニフォームで涙をぬぐった117 。ブラジル代表としては国際Aマッチ92試合に出場し77得点を記録118 。通算成績は67勝14引分け11敗。ブラジル代表はペレが去った後、24年間ワールドカップの優勝から遠ざかることになった。
引退後 引退後は国際サッカー連盟 (FIFA) の大使、フェアプレー委員会の一員として世界中で広報活動に携わったほか、国際連合児童基金 (ユニセフ)の親善大使に任命され子供の基本的権利の保護を訴えたイベントに関わった。2001年にはFIFAとユニセフがパートナーシップを締結したが、ペレはこの仕事に携わっている119 。
1995年、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ 大統領の下でスポーツ大臣 に就任。ペレはブラジル史上初の黒人閣僚として1998年までの3年間この職務を務めた。在任期間中は、「オリンピック・ヴィレッジ」と呼ばれる各地方政府と協力してスポーツ施設を建設する公共事業や、ペレ法 (Lei Pelé) の制定に取り組んだ。ヨーロッパにおけるボスマン判決 のブラジル版ともいえるペレ法は選手がクラブに契約で拘束されず自由に移籍を行えるようにした法律で、1998年4月29日に可決され、3年後の2001年3月26日から施行された127 。これにより従来のパス(選手保有権)が廃止され、契約終了後の移籍金が発生することはなくなった。
一方でスポーツ大臣としてサッカー関連の法制定に取り組んだことでアベランジェとテイシェイラとの関係は更に悪化し、ペレの会社はビジネスの場から事実上締め出されていたが、2001年1月に和解が成立し8年間に及んだ争いに終止符を打った123 。しかしメディアからは「王が平民に成り下がった」「スポーツ倫理と戦ってきた我々に対する最大の裏切り」と批判された128 。
多くの名誉職に任命されたほか、1998年にはサッカーにおける功績と数々のボランティア 活動を讃えられイギリス 政府から大英帝国勲章 を授与された127 。またペプシコーラ、プーマ 、マスターカード 、コカコーラ など世界各国で数々の大企業の広告 に出演するなど引退後もCM出演依頼が後を絶たない129 。2002年には製薬会社のファイザー から依頼を受けて勃起不全 (ED) 治療のスポークスマンを務めた129 。「ペレ・カフェ」というコーヒーブランドを持っているが、これは1960年代にブラジル・コーヒー協会がヨーロッパへ進出した際に立ち上げたもので、東欧や中東など世界中で飲用されている129 。
2010年8月1日、選手時代に在籍したニューヨーク・コスモスが再建されることに伴い、同クラブの名誉会長に就任することになった130 。
現役復帰説 ペレは、ニューヨーク・コスモスでの現役引退後に慈善試合や、1980年9月24日に行われたベッケンバウアー引退記念試合131 や、1987年1月に地元ブラジルで開催されたシニア・ワールドカップ132 など8試合に出場している131 。また引退から9年後の1986 FIFAワールドカップ の際には、ブラジル代表のメンバーとして出場する可能性があり131 、当時のテレ・サンターナ 監督も「控え選手として上手く起用出来ればありえない話ではない」と発言していた131 。この時、既に45歳を迎えていたペレの大会出場が実現すればワールドカップ最年少出場記録と最高齢出場記録を保持することになったが、最終的に参加は見送られた131 。1990年10月31日には生誕50周年を祝してイタリア・ミラノ にあるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ で記念試合が行われ、ブラジル代表の10番として世界選抜と対戦し前半42分までプレーしたが131 133 、これが最後の試合出場となっている132 。
2011年、古巣のサントスFCがコパ・リベルタドーレスを48年ぶりに制し同年12月に日本 で開催されるFIFAクラブワールドカップ2011 への出場権を獲得したが、同大会へのペレの出場が取り沙汰された134 。同年8月に同クラブの会長は「70歳という年齢から、長い時間プレーすることは難しいが、皆を感動させるには彼のたった一つのプレーだけで十分である」とペレの現役復帰の可能性を示唆し134 、最終的な判断は監督のムリシ・ラマーリョ に一任すると述べた134 。
その一方で、ペレの代理人はメディアの取材に対し「ペレのスケジュールは1年間を通じて全て埋まっており、実現は不可能である」と会長の発言を否定135 。同年11月にラマーリョ監督によりFIFAクラブワールドカップに出場する23名の選手が発表されたが、ペレの名前はなかった136 。
晩年 2021年の定期健診の際に上行結腸に結腸がん が見つかり、9月4日に摘出手術を受けたあと約1カ月間入院し、同年12月8日よりサンパウロにあるアルベルト・アインシュタイン病院 に入院し化学療法を開始137 。同年12月23日には退院したが、がん治療は継続され138 、以降は病院にて1カ月に1回検査を受ける生活が続いた。2022年4月18日よりアルベルト・アインシュタイン病院に再入院139 。2022年11月29日より治療の見直しを行うため再び入院し140 、入院後には呼吸器感染症の感染も確認された141 。
折しもカタール においてFIFAワールドカップ が開催されているさなかの再入院報道だったため、同大会に出場しているブラジルサポーターが試合前の国歌斉唱 の際にペレの回復を祈る横断幕を掲げたり142 、開催国のカタールにある高さ300m のアスパイア・タワー には、ペレの姿を大きく映し出すライトアップが行われた143 。12月3日には、化学療法が期待通りの結果を出さなくなったため緩和ケア に移行したとブラジルの地元紙が報じたが、翌日にはペレの家族が報道の一部を否定し緩和ケアは行っていないとした141 。12月29日に大腸がん 進行などによる多臓器不全 により82歳で死去した144 。ちなみにペレが死去した時、彼の母親であるセレステ・アランテスは100歳でなお健在であった。その後同日、ボルソナロ大統領 はペレの功績を称えるとともに3日間の服喪を布告した145 。また、映画『勝利への脱出 』でペレと共演した俳優のシルベスター・スタローン は、自身のインスタグラム などでペレの死を悼んだ146 。バラク・オバマ 元アメリカ合衆国大統領 は「世界でも最も有名なアスリートの1人で、彼は人々を団結させるスポーツの力を理解していた」とコメントし、ジョー・バイデン 大統領も「恵まれない生い立ちからサッカー界のレジェンドになったことは何が可能かという物語だった」と称えた147 。2023年2月末には生前の功績が称えられてザ・ベストFIFA特別賞 が贈られた。式典には生前最後の妻であるマルシア・シビーリ・アオキが代わりに出席してロナウド から記念トロフィーが授与された148 。実母セレステ・アランテスは、2024年6月19日に101歳で死去したが、息子が死去したことを知らされることはなかった149 。
ペレが世界に与えた功績についても語り継がれるでしょう。彼がプレーしていた頃、世界は今よりもさらに人種差別が深刻でした。それでも、黒人選手である彼は地球上で最も人気のあるスポーツの王様になりました。彼は黒人選手でも1番になれること、より大きな成功を収めること、そして人種差別を克服できることを示したのです。差別との戦いはまだ終わっていませんが、誰もが**王様(レイ)**ペレの例からインスピレーションを得て戦うことができるように願っています。
ペレはピッチ上で最高の選手である同時に、世界に大きな影響を与えました。この伝説は永遠に続くでしょう。安らかに眠れ、我が友よ。 — ロナウド 、式典でのスピーチにて148
人物
プレースタイル サッカー選手としては小柄な体躯ではあったが150 、身体能力が高く22 151 バランス感覚に優れ151 、アメリカ のスポーツ誌『スポーツ・イラストレイテッド 』からは「ペレは世界中のスポーツマンの中で最も完全な体格の持ち主」と断定されている150 。自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けせず、跳躍力を生かした打点の高いヘディングも得意としていた22 。ペレは100m走を10秒台で走る俊足151 とアフリカ系黒人選手特有の瞬発力や脚の筋力152 を生かし、リズムを急激に変えることでDFのマークを外すドリブル突破を得意としていたが151 、ドリブルの際には大きなストライドでなく常に足下にボールを置きながら細かなステップでコントロールしていた22 。打点の高いヘディングや足下に吸い付くようなドリブル、左右両足から放つ正確なキックといったフォワードとしての基本技術は、ペレと同じく現役時代にセンターフォワードを務めていた父親のドンジーニョの教えによるものだった22 153 。
身体能力や得点能力が際立つが、背番号9タイプの古典的センターフォワードのように前線で孤立してチャンスを待つのではなく、下がり目の位置から前線に飛び出すプレーを好んだ22 。ペレは自著で自らのプレースタイルについて、
得点数だけを見て純粋なセンターフォワードと評するものもいるが、そうではない。私は攻撃的MFであり、守備範囲の広いセンターフォワードだった。 — ペレ
サッカーで一番大事なことはインスピレーション。 — ペレ
と語るように独創的なプレーの持ち主でもあった154 。
1958年ワールドカップのスウェーデン戦でみせた、突進するDFの頭上にボールを浮かせてから相手の背後に回りこむ「シャペウ 」(ポルトガル語で帽子の意)あるいは「レンソウ」(ポルトガル語でハンカチの意)とも言われるプレー155 156 157 、1970年ワールドカップ準決勝のウルグアイ戦で相手GKのラディスラオ・マズルケビッチ と1対1になった場面で、ボールを意図的にスルーしてGKの予測の裏を突き、反対側をすり抜けてシュートを放った158 159 160 「ドリブレ・ダ・バッカ」(ポルトガル語で牛のドリブルの意)の変形ともいえるプレー161 など、予測のつかないプレーを一瞬で判断して実行した162 。ウルグアイ戦でのGKをかわした後に放ったシュートはゴールを外れたものの160 161 、このプレーは「世界サッカー史上で最も美しいノーゴール」と呼ばれ161 、ペレ自身も「ゴールはならなかったが、ゴール以上に有名になった」と語って誇りとしているプレーである161 。また、ペレはトップスピードで走る複数の選手が壁パス を繋ぎながらゴール前に迫る「タベリーニャ」と呼ばれるコンビネーションプレーを考案したと言われている163 。
ブラジル代表時代の同僚だったガリンシャとの比較においては、「ドリブルの技術ではガリンシャの方が上152 」との声もあるが、ペレは自由奔放にプレーをしていたガリンシャとは異なり年齢と共にポジションを下げチームプレーに徹し152 、状況に応じて積極的な守備を行う知性を持ち合わせていた152 。恵まれた反射神経を生かしてゴールキーパー を務めたこともあり164 、サントスFCでは4試合、ブラジル代表では1試合に出場した164 。
家系 ペレの祖先の出自にはアンゴラ 出身とする説とナイジェリア 出身とする説がある165 。ナシメントという姓は祖先がアフリカ大陸 からブラジルに奴隷 として連れられた際に、最初に働いていた農場 の経営者の姓だと言われている165 。ブラジルで奴隷制度が廃止されたのは1888年であり165 、この頃に生まれたペレの祖母らは生まれながらに自由を獲得できた最初の世代となった165 。
父ドンジーニョは元サッカー選手であり、伯父のフランシスコも元サッカー選手であり才能豊かな選手だったが、25歳で早逝した166 167 。弟のジャイール(通称、ゾカ)も一時はサッカー選手を志し、ポジションはミッドフィールダー を務めていた168 。兄と同様にサントスFCに入団し将来を嘱望されていたが168 、マスコミから兄と比較され続けることに嫌気が差し若くして引退168 。その後は弁護士 に転身した168 。
私生活 1966年に白人女性と最初の結婚をし、一男二女に恵まれたが1978年に離婚。長男のエジーニョ は後にサッカー選手を志し、父親の古巣であるサントスFCのテストを受けて合格。父親とは違いゴールキーパーを務めていたが、怪我の影響もあって1999年に現役を引退した169 。エジーニョは引退後は父の経営するサッカー事業に携わっていたが、2005年に麻薬密売に関わっていた容疑で逮捕され170 171 、刑務所に収監された169 。仮釈放後は麻薬中毒のリハビリを受けていたが、2006年に麻薬密売組織の資金洗浄 に関わった容疑で再逮捕された172 。
最初の妻との離婚後、ドイツ系ブラジル人のマリア・ダ・ガラサ・メネゲルと交際した173 。彼女はシュシャ という芸名でモデルとして活動しており、1980年代初頭には『PLAYBOY 』誌の表紙を飾った。後にブラジルの子供 番組の司会者 に抜擢されると、ペレは彼女の経歴を懸念しPLAYBOY誌と独占インタビューに応じる代わりに彼女の写真のネガを引き渡す取引を行った173 。シュシャはこの番組出演を皮切りに映画出演や歌手としても成功を収め、ペレ自身も彼女の番組に特別出演した173 。シュシャはペレと別れた後はF1ドライバー のアイルトン・セナ と交際したが、このことからシュシャを巡ってペレとセナの間でトラブルがあったとの噂が広まった173 。
これまでに2度強盗事件に見舞われている。1999年10月にサンパウロ市内で自動車強盗 に遭遇したが、その際にペレは着用していた黒い帽子を脱ぎ顔を露わにすると、強盗は「あなたから金は取れない」と言って謝罪し175 、何も盗らずにその場から逃走したという176 。2008年6月13日にはサンパウロ州 グアルジャで渋滞にあった際に10人程度の自動車強盗団の襲撃を受け、時計 やネックレス 、携帯電話 などを奪われかけたものの、強盗団のうち数人はペレであることに気づくとその場で返却した。しかしネックレスを奪ったものはペレであることに気づかずにそのまま逃走した177 。
人となり 努力家で123 、非常に負けず嫌いな人物である181 。また、ピッチの上でも外でも自分を神のような存在であろうとする人物とも評される123 。短く刈り上げたヘアスタイルは、父親への敬意を示しており182 、メキシコで「ペレカット」として流行したことがある183 。また、「エンテンデ ?」(entende、「分かるかな ?」という意)という口癖は、ブラジル国内ではしばしば物真似をされている123 。
父親のドンジーニョはサッカー選手にとって有害とされているたばこと酒を一切やらず、父の影響を受けてペレも現役時代はたばこと酒を口にしなかった184 。一度友人たちとたばこを吸っているところを父が通りかかって見られてしまったことがあったが、家で父から「お前はサッカーの才能を持っている。自分でもわかっているだろう。将来きっといい選手になれるよ。でもたばこを吸ったり、酒を飲んだりしたらおしまいだよ。90分間走り回れる体力がなくなってしまうんだ。お前はどっちがいいんだい」と諭され、「私たち一家を、お前の誇りのためにも、もう人からもらおうなんて考えるんじゃないよ。たばこを買う金が必要になったら、いつでもいいなさい。あげるから」と言われたという184 。ペレはこの会話が忘れられないものになったといい、以降一度もたばこを口にしなかった184 。酒については近所のイタリア人の子供に誘われて赤ぶどう酒をビンの半分も飲んでしまい、死ぬかと思うほどひどく悪い気分になったという体験から飲まなくなったといい184 、この時は父からきついお仕置きを食らったという184 。
日本との縁
人間関係
マラドーナとの関係 1980年代から1990年代のスター選手であるアルゼンチン のディエゴ・マラドーナ とはしばしば比較対象とされている206 207 208 。2000年12月にFIFA20世紀最優秀選手が発表されることになったが、ペレはFIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では72.25%の投票率を得て2位のアルフレッド・ディ・ステファノ と3位のマラドーナを上回ったものの、FIFA公式サイトによるインターネット投票ではマラドーナが53.6%の投票率を得たのに対しペレは18.53%と下回った。FIFAは当初、最優秀選手を一人だけ選ぶ事にしていたが、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。事態の沈静化に乗り出したFIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決め、両者はイタリアのローマ で行われた授賞式に出席した209 。
このように両者並び立つ存在として評価され、お互いに偉大な選手として一定のレベルで認め合う存在ではあるが210 211 、その一方で、ブラジルとアルゼンチンのライバル関係を元に両国のマスコミが煽り立てたこともあり、マラドーナが2020年11月に逝去するまでの間は長年事あるごとに批判や非難の応酬を繰り返した。マラドーナは子供時代に同じスラム街に生まれてサッカー界の英雄となったペレを訪ねて隣に座って親しく話したいという夢を抱き、1979年にはリオデジャネイロ巡礼の旅に出たほどであったが212 、1982 FIFAワールドカップ でアルゼンチンが2次リーグのブラジル戦で敗れて敗退が決まった際にペレがマラドーナに対して「マラドーナは人間性に欠けるところがあるため、そのサッカーの才能を台無しにしてしまった212 」、「私は、マラドーナが世界のサッカーファンから称賛を受けるだけの十分な偉大さを持っている人間かどうか、大きな疑問を持っている212 」と手厳しく批判し、これでマラドーナもペレに対して悪感情を抱くようになった212 。
その後、2005年アルゼンチンのTV番組「ラ・ノーチェ・デル・ディエス」出演時にマラドーナと和解した213 214 215 。
ペレは2008年にマラドーナの薬物違反 について「彼はドーピング検査で陽性反応が出ている以上、受賞したタイトル全てを剥奪されるべきだった。ドーピング検査で陽性反応となったオリンピック選手らはメダルを剥奪されているのだから、マラドーナが剥奪されないのはおかしい」とマラドーナを批判し211 、2009年9月には、マラドーナが「彼はW杯を多く勝ち取っているが、欧州でプレーするのはまた別のことだ」とペレの記録を軽視する発言をした直後に、ペレは「マラドーナは偉大な選手だが、右足で蹴ることができず、ヘディングでの得点はなかった。彼がヘディングで決めた唯一の重要な得点はハンドだったことが判明している」と反論210 。2010年6月には、2010 FIFAワールドカップ の開催を過去に疑問視していた時期があったペレを216 マラドーナが大会開幕後に当時の発言を持ち出して批判すると216 217 、これに対しペレは「彼が代表監督を引き受けたのは、金と仕事を必要としていて、再び世間の注目を集めたいと思っていただけだ。監督にしたのは大間違いだ」「私にもっと敬意を払うべきだ」と反論216 217 。更にマラドーナも自分の監督手腕を疑問視されたことで「(ペレは)博物館へ戻るべきだ218 」とコメントし、非難の応酬を繰り返した。
2020年11月25日にマラドーナが逝去したことを受けて、ペレは自身のインスタグラム アカウントにおいて1986 FIFAワールドカップ でアルゼンチンが優勝してトロフィーを掲げるマラドーナの写真を投稿し、「きょう悲しいニュースがあった。私は親愛なる友を失い、世界はレジェンドを失った。言いたいことはもっとあるが、ひとまず、神が彼の家族に力を与えてくれますように。いつか天上で一緒にサッカーができることを願う」と述べた219 。
リベリーノとの関係 1960年代のインタビューで、司会「ペレ選手、あなたに出来ない事はないですね?」との問いに「コリンチャンスの試合での試合開始のキックオフで味方がワンタッチした球をリベリーノが直接ゴールした事があった。リヴァ(リベリーノ)はキーパーが前に出ていたことを見逃さなかったんだ。とにかく、そんなのは初めてだろ?」と述べているが、他方で非常に嫉妬していた。1966年頃までは国内でサントスのペレは無双であったが、以降はコリンチャンスのリベリーノがブラジル国内では人気・実力共にペレを抜きNO.1であった。また、『ペレが選んだ偉大なサッカー選手100人』からリベリーノを外している(各方面からクレームが付き、後に25人追加された中にリベリーノが入っている)。また、関係が修復したマラドーナとの会話では、「リベリーノはダメだ」とオフレコで述べている。また、マラドーナが自分(ペレ)ではなく「リベリーノに憧れた」発言には不満であった。総じて自分の地位を脅かすリベリーノに対して否定的な発言が多い220 215 221 。
ガリンシャとの関係 ペレは当初ガリンシャのプレースタイルについて「次に何のプレーを選択するのか読めない」と当惑していたが、何度も話し合いを持つうちにやがて名コンビとなり222 、ブラジル代表で二人が揃って出場した試合は負け知らずという記録を残した222 。しかし、このことは当の本人達は一切知らず、話題にも上らなかった222 。また、後にガリンシャの妻となるサンバ歌手のエルザ・ソアレス とペレが交際していたとの噂が広まったこともあった223 が、ペレの自著によると根拠のないゴシップだとしている223 。ブラジル国内では比較対象とされることの多い224 二人だが、現役時代は活動拠点がそれぞれ異なっていたこともあって、ブラジル代表を離れると交流機会は少なかった222 。
引退後は全く異なる人生を送っていたがガリンシャの死の2か月前、1982年末にブラジルのプラカール 誌により二人の特集が企画され再会を果たした225 。一方で翌1983年1月の葬儀にリオデジャネイロ選手組合会長のジーコ らと同じく姿を見せなかったことが地元メディアの話題となった225 。
アベランジェとの関係 1958年ワールドカップの際に、まだ17歳だったペレをブラジル代表メンバーに抜擢するように主張したのは当時ブラジルサッカー連盟 (CBF) 副会長を務めていたジョアン・アベランジェ と言われている226 。
また、1966年のワールドカップでペレが「二度と代表チームではプレーをしない」と宣言した際には、あらゆる手を尽くして代表に復帰するように粘り強く説得した227 。これらの経緯からアベランジェは「ペレは私に大きな貸しがある」と考え227 、ペレ自身も敬意を示していた126 227 。
1970年代初頭にアベランジェがFIFA会長選挙立候補のためにアフリカ諸国を訪問した際には、ペレもこれに同行してアベランジェへの投票を陳情するなど全面的に協力126 228 。反アパルトヘイト を掲げて228 理事達の支持を得て1974年に南米出身者として初めてFIFA会長の座についた。アベランジェは各年代別の国際大会創設やスポンサーの獲得など手腕を発揮したが229 、後に独裁ぶりが非難をされるようになった229 。
影響 ペレの後継者と目される選手や、その国を代表とする攻撃的なポジションの選手は「○○のペレ」との異名が付けられることがある。ペレの現役時代には7歳年下のトスタン がゲームメイク能力と得点能力を併せ持った事から「白いペレ」230 、ソビエト連邦のストライカーだったエドゥアルド・ストレリツォフ が「ロシアのペレ」231 の異名で呼ばれた。
評価 テレビ やインターネット が普及していない情報伝達の遅い時代に、様々なプレーを考案し実行した先駆的存在である251 。一方、ペレのプレーを止める為にラフプレーが横行し蔓延する結果となり252 、その対策として選手交代やイエローカードとレッドカードの制度が導入される252 など、その存在がサッカー競技に変化をもたらした252 。ブラジル代表ではペレ以降背番号10がエースナンバーとなったが、後に引き継いだ選手には相当のプレッシャーとなったという253 254 。
当時の選手では殆ど前例がない中、引退後の生活を考えて企業の広告塔として活動したこともあって、1970年代に欧州で行われたブランドとしての知名度の調査では、ペレの名前はコカ・コーラ に次いで第2位にランクされた255 。1973年にブラジル国内で行われた知名度の調査ではエミリオ・ガラスタズ・メディチ やリチャード・ニクソン を上回りペレが1位を獲得256 。引退後の1993年に、世界109か国991人のスポーツ記者を対象に行われたワールドカップ史上最も偉大な選手の投票において、第1位に選ばれた256 。知名度の高さについて、自ら「イエス・キリスト より有名かもしれない」と発言したこともある257 。また、「ペレの綴りを知っているか?G・O・D(神)と書くんだ」と発言したイギリス人記者もいた258 。
かつて、ビアフラとナイジェリアの内戦を一時的に停止させるなど、政治家以上の影響力を持ち259 、引退後はブラジル大統領に就くことを公言してきた259 。1990年代にはブラジルのスポーツ大臣として利権者たちと対決して腐敗を告発し、一時期ブラジルサッカー界の近代化のための旗手となった123 。1999年には、タイム誌 の選ぶ「20世紀の最も影響力のある100人」の一人に選ばれるなど、サッカーやスポーツの枠を超えた影響力のある人物と評価されている。
選手時代から病院や公共施設に多額の寄付を行い256 、孤児のための基金を設立するなどの功績により、人徳者として紹介される256 一方で、前述のようにブラジルサッカー界の腐敗を正す立場にありながらあっさりと権力者と手を結んでしまった姿勢260 や、ブラジル代表や現役としてプレーする選手たちへの辛辣な発言が物議を醸すことがあり123 261 、一部で人間性に疑問の声も出ている123 262 。ペレについてはかつてのチームメイトや対戦相手だけでなく政治家や芸術家など様々な分野の人間がそれぞれの立場からコメントを残している。
獲得タイトル
個人成績 国際サッカー連盟(FIFA)公式サイトによると、1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年で通算1363試合出場、1281ゴール4 。公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である(非公式ではゲルト・ミュラー 1461点、アルツール・フリーデンライヒ の1329ゴールなど上回る記録はある)。1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックは92回、1試合最多得点は8点としている4 。
統計
関連情報
映画
O Barao Otelo no Barato dos Bilhoes :1971年
A Marcha :1973年
Os Trombadinhas :1978年
『勝利への脱出 』(Escape to Victory ):1981年
『ヤング・ジャイアンツ〜奇跡のイレブン〜』(A Minor Miracle ):1983年
Pedro Mico :1985年
Os Trapalhoes e o Rei do Futebol :1986年
『炎のストライカー』(Hot Shot ):1986年
Solidao, Uma Linda Historia de Amor :1990年
Mike Bassett: England Manager :2001年
Pele Eterno :2004年
『ペレを買った男 』(Once in a Lifetime ):2006年
『ペレ 伝説の誕生 』:2016年
書籍
『サッカーわが人生--ペレ自伝』(My life and the beautiful game 、鈴木武士 訳、講談社 、1977年)
『ワールドカップ殺人事件』(World cup Murder 、安藤由紀子訳、東京創元社 、1990年)
『ペレ自伝』(伊藤淳翻訳、白水社 、2008年)
参考文献
安藤正純『サッカーについて僕たちが本音で語った本』東邦出版 、2008年。ISBN 4809406733。
岩永修幸『蹴球神髄―サッカーの名言集』出版芸術社 、2005年。ISBN 4882932695。
牛木素吉郎 『サッカー世界のプレー ワールドカップのスターたち』講談社 、1970年。
小倉純二 『サッカーの国際政治学』講談社〈講談社現代新書 〉、2004年。ISBN 4061497308。
国吉好弘『サッカーマルチ大事典 改訂版』週刊サッカーマガジン 責任編集、ベースボール・マガジン社、2006年。ISBN 4583038801。
後藤健生 「「王様」の称号に相応しい万能のフットボーラー ペレ」『ワールドカップ伝説 vol.4(’70年代編)―永久保存版 偉大なる開拓者たちの時代』ベースボール・マガジン社 〈B・B MOOK 666 スポーツシリーズ NO. 538〉、2010年。ISBN 4583616791。
後藤健生、加部究 、亘崇詞 『ワールドカップ最強伝説--歴史を変えた選手・チーム・戦術--』白夜書房 〈サッカー小僧新書2〉、2010年。ISBN 4861916267。
後藤忠弘『あの一言はすごかった!スポーツ編』中経出版 、2002年。ISBN 480611748X。
沢田啓明『情熱のブラジルサッカー--華麗・独創・興奮』平凡社 〈平凡社新書 〉、2002年。ISBN 4582851312。
柴田勗『ブラジルサッカー総覧 ブラジルサッカーの歴史から用語まで』河出書房新社 、2001年。ISBN 4309264689。
武智幸徳 『サッカー依存症』日本経済新聞出版社 、2010年。ISBN 4532167418。
西部謙司『神の足 サッカースーパースター技術録』コスミック出版 〈COSMO BOOKS〉、2010年。ISBN 4774790397。
藤原清美 『感動! ブラジルサッカー』講談社〈講談社現代新書〉、2006年。ISBN 4061498355。
松岡完『ワールドカップの国際政治学』朝日新聞社 〈朝日選書 〉、1994年。ISBN 4022595973。
松岡完「第二のペレを寄せ付けない技術と人格」『スターからアイドルへ―スポーツ・芸能・モード』朝日新聞社〈二十世紀の千人〉、1995年。ISBN 4022586079。
山田睦男『概説ブラジル史』有斐閣 〈有斐閣選書〉、1986年。ISBN 4641024952。
アレックス・ベロス 著、土屋晃、対馬妙 訳『フチボウ 美しきブラジルの蹴球』ソニー・マガジンズ 、2006年。ISBN 4789728544。
アンジェロ・イシ『ブラジルを知るための55章』明石書店 〈エリア・スタディーズ〉、2001年。ISBN 4750314153。
アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス 著、市之瀬敦 訳『背番号10 サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』白水社 、2008年。ISBN 4560026408。
クリストファー・ヒルトン、イアン・コール 著、野間けい子 訳『南米サッカーのすべて 3rd edition』DAI-X出版、2002年。ISBN 4812519101。
ジミー・バーンズ 著、宮川毅 訳『ディエゴ・マラドーナの真実 追悼・増補版』ベースボール・マガジン社、2021年。ISBN 4583114249。
ジーコ 『ジーコイズム』小学館 〈週刊ポストBOOKS〉、2003年。ISBN 4093795932。
ステファン・シマンスキー、アンドリュー・ジンバリスト 著、田村勝省 訳『サッカーで燃える国 野球で儲ける国--スポーツ文化の経済史』ダイヤモンド社 、2006年。ISBN 4478220042。
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ 著、藤坂ガルシア千鶴 訳『マラドーナ自伝』金子達仁 監修、幻冬舎 、2002年。ISBN 4344002024。
デヴィッド・ヤロップ著 著、小林令子 訳『盗まれたワールドカップ』二宮清純 監修、アーティストハウス 、1999年。ISBN 4901142070。
ネルソン・ヒラタ 著、牛木素吉郎 、ブラビス・インターナショナル 訳「ペレの神話」『ペレのサッカー--ペレの技術を学ぼう』ペレ著、講談社〈講談社スポーツシリーズ〉、1981年。ISBN 4061414070。
ブライアン・グランヴィル 著、田村修一、土屋晃、田邊雅之 訳『決定版ワールドカップ全史』賀川浩 監修、草思社 、1998年。ISBN 4794208189。
フランクリン・フォア 著、伊達淳 訳『サッカーが世界を解明する』白水社、2006年。ISBN 4560049750。
ペレ 著、鈴木武士 訳『サッカーわが人生--ペレ自伝』講談社、1977年。
ペレ 著、伊達淳 訳『ペレ自伝』白水社、2008年。ISBN 4560026300。
リチャード・ウィリアムズ 著、町田敦夫 訳『背番号10のファンタジスタ』ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 4583100108。
ロジャー・マクドナルド 著、サッカーマガジン編集部 訳『写真で見るサッカーの歴史 グローバル・スポーツそのメモリアル・シーン』ベースボール・マガジン社、1982年。ISBN 4583021313。
FIFA 編「Players Portraits 」『フットボールの歴史 FIFA創立100周年記念出版』講談社、2004年。ISBN 4062125609。
脚注
過去30日の閲覧 0回
下位記事 この記事に属する個別の出来事や下位の話題を、別の記事として作成できます。
+ 下位記事を作成